生まれたての涙



もしも許されるのならば、この痛みの名前を教えてほしい。この切り裂かれるような心の痛みの名前を、教えてほしい。


―――指先が触れるだけで、それだけで泣きたくなるほどの想い。


真っすぐに自分を見つめてくる瞳が、何よりも綺麗だと思った。綺麗過ぎて、哀しくなるほどに。揺るぐことない、強くて大きな瞳。けれどもその瞳の持ち主は、とても小さくてそして儚い。こうして抱きしめて、強く抱きしめれば―――壊れてしまうほどに。
「…ゼルギウス……」
このまま優しく抱きしめて、全てから護りたいと思う。それ以上にこのままきつく抱きしめて、誰にも渡したくないと願う。それはどちらも自分にとっては、本当のことだった。どちらも、狂うほどの祈りだった。
「―――そなたは…どうして……」
見つめてくる瞳の先の答えを知っていながら、その先を閉じ込める様に拒絶する。今の自分には、それしか出来なかった。それしか、出来ない。


貴方が、微笑うから。そっと、微笑むから。
それがあまりにも無邪気で、あまりにも無垢で。
闇しかない私にとって、それは何よりも眩しいもので。
眩しすぎた、から。だから。


――――貴方に触れることすら、許されない気がした。


小さな人。とても小さな人。その肩に伸しかかる運命はとても重たいものなのに。それなのに、この人を護るものは何もない。それでも懸命に運命を受け入れ、強く生きようとする人。その揺るぎない強い瞳で。
「どうして、私のそばにいるのに…こんなにも遠いのじゃ?」
まだ幼さの残る指先が差し出される。綺麗な指だった。傷一つない、綺麗な指先。戦い血に塗れ、穢れている自分の指とは全く別のモノ。その指先がそっと、胸元に触れる。命の音を確認するように。
「そなたの心の音はこんなにも優しい。そなたの瞳も、哀しいくらいに優しい。なのにどうして、こんなにも遠いのじゃ?」
このままこの手を取って、腕の中に抱きしめて。壊れるほどに、抱きしめて。そして全てを捨てる事が出来たならば。そうしたら、ふたり。ふたり、幸せになれるのか?
「サナキ様。貴女は私にとってただひとつの―――護りたいものなのです」
何もかもを捨てて。世界も、未来も、希望も、そして願いすらも。背負っている全てのものを振り払って、ふたりで。ふたりで、生きてゆけたならば。
「ならば何故っ!何故私を拒絶する?!」
いやそれは。それは夢でしかない。この人とふたり、ともに生きる未来に光などない。幸せなどない。そう、この人のそばにはいられない。
「簡単なことですよ、サナキ様。私は」

「―――私は貴方を傷つけるものは許さない。それが例え『私自身』であっても」


いつかこの想いが貴女をずたずたに引き裂くだろう。
「何を言う、ゼルギウスっ!私はそなたが…っ」
二度と戻れない場所へと連れてゆくのだろう。そんなこと。
「…私は誰よりもそなたのことが……」
そんなこと、許されない。貴女から光を奪えない。


――――私は貴女だけのものだけど、貴女は私だけのものには決してならないのだから。


愛している。狂うほどに、貴女だけを愛している。
私の背負っているもの全てを捨てて、貴女を奪えたら。
全てを引き換えにして、貴女を手に入れられたなら。

でもそれは許されないこと。それは決して叶わない夢。どんなに、どんなに願っても。


出逢ったときから、別れは決まっていた。さよならは、決められたことだった。私がセフェラン様とともに生きてゆくと決めたその瞬間から。この出逢いには別れしかなかった。
「サナキ様、貴女は未来に生きる人だ。貴女の綺麗な未来に、傷が付いたらいけません」
それでも、願ってしまった。それでも、祈ってしまった。貴女の幸せを、貴女の未来を。その隣に私が存在しないと分かっていても、それでも。それでも…愛してしまった。
「貴女は前だけを見てください。未来だけを見てください。過去しかない私とともにいてはいけません」
貴女があまりにも自然に、私の心に入ってきてしまったから。そっと、優しく浸透してきたから。その暖かさに身をゆだねる心地よさを知ってしまったから。
「貴女に、闇は相応しくない」
だから、離れられなくて。どうしても、離れられなくて。こんなになってしまうまで。こんなにも想いが溢れてしまっても…そばにいたくて。




気付いていた。ずっと、本当は気付いていた。それでも気付かないふりをしていた。この時間を、この瞬間を、壊すのが怖くて。そなたと私とセフェランと。ずっと。ずっと、ともに在るのだという未来を。
でも何処かで気づいていた。何処かで分かっていた。何時しかそなたは、私のもとから消えるのだろうと。

―――それは漠然とした予感でしかなかったけれど。常に確信として私の心の中に存在していた。

そなたの優しさが、私を傷つける。そなたの存在が、私を苦しめる。けれどもそれ以上に、そなたの存在が…私にとっての生きる意味になっていた。


ゼルギウス。ゼルギウス―――名前を呼ぶだけで泣きたくなる気持ちは、そなただけが教えてくれた。そばにいるだけで嬉しくて、そして苦しくなる想いも。声を聴くだけで胸が震えるのも、瞳を見つめるだけで心が震えるのも。全部、全部、そなたが教えてくれた。


だから、きっと。きっと、生まれて初めての涙の意味も、そなたからもたらされるものなのだろう。この、どうにもならない涙の、意味も。


胸に伸ばした手を、そっと。そっと、その手に重ねた。大きくて節くれだって、そして傷だらけの手に。
「そなたは卑怯じゃ。どうして―――拒絶せぬ」
その手はとても暖かい。暖かくて優しくて、哀しい手。重ねたままの手を頬に手をあててみる。一瞬だけびくりと反応したが、そのまま。そのまま頬に重ねさせた。今の私の全てを伝えたかったから。
「私の手を、拒絶せぬ」
「―――出来ません、今は…今は…出来ません…だって……」


「…だって…貴女が…泣いているから……」


生まれたての涙の意味を、そなたに伝えたい。この今、この瞬間に生まれた想いを。例えこの先に在るものが、永遠の別れだとしても。ふたりにとって未来がどこにもなくても。それでも伝えたい。つたえ、たい。今ここに在るただひとつの想いを。

―――誰のためでもない。ただひとり、そなたのためだけに、流す涙の意味を……




どうして、私は。私はただの『騎士』でいられないのだろう。貴女を護るためだけの騎士で。そうすればこんな痛みも、こんな苦しみも、己の中に閉じ込めて消化すればよいだけなのに。

なのに、どうして。どうして、私はそれ以上の想いを貴女に対して持ってしまうのか。

サナキ様、サナキ様。私は貴女の幸せだけを願っている筈なのに。どうしてこんなにも。こんなにも、貴女を愛してしまった?貴女自身を、願ってしまった?その先に在るものを誰よりも分かっている筈なのに。いや、分かっていても止められなかった。そうだ、止められるはずがない。


――――止められるぐらいの想いならば、初めから貴女を愛したりはしなかった。


伝わってくる。触れあった個所から。
「…ゼルギウス……」
伝わって、溢れてくる。貴女の想いが。
「…ゼル…ギウス……」
溢れて零れて、私を沈めてゆく。


―――ああ、この瞬間。今この瞬間に、私という存在が全て消えてしまえたら……


声にならない声で、言葉にならない言葉で、告げた。―――愛している、と。けれどもそれは決して。決して、貴女に届くことはない。届けては、いけない。
「…さようなら、サナキ様…お幸せに……」
零れ落ちた涙を拭い、そのまま重なり合った手を離す。自らの手のひらに決して消える事のない、ぬくもりだけを残して。
「私はどこにいても、どんなになっても…貴女の幸せだけを願っていますよ」
この先貴女を取り巻く環境は今以上に厳しいものになるだろう。けれどもそれすらも貴女ならば乗り越えていける。誰よりも綺麗な星の下に生まれてきた、貴女ならば。
「…ゼルギウス……」
最後に貴女の瞳をもう一度見つめた。何よりも綺麗で真っすぐなその瞳を。その瞳を瞼の裏に焼き付け、そして私は貴女の元を離れた。もう二度と、振り返ることは…しなかった。



「…さようなら…ゼルギウス……」


その背中が見えなくなるまで、追いかけた。見えなくなっても…追い続けた。そして。そして、振り絞るようにそれだけを、告げた。これが永遠の別離だと、理解できないほど子供だったら良かったと思った。けれども子供だったら、こんな想いは知ることができなかった。こんなにも、苦しく切なくけれども…けれども、しあわせな想いを。


―――何処にいても、どんな時でも、願うのは貴女の幸せだと。その言葉だけで…生きてゆけると…思った……。




耳に残るその声に堪え切れずに、立ち止まる。その瞬間、ぽたりとひとつ。ひとつ、雫が頬を伝う。それは。それは生まれたての、涙だった。


―――ゼルギウスが初めて知った、それは生まれたての涙の意味だった。