――――初めて声を上げて泣いた夜、そばにいたのは貴方でした。
人生という長い長い道があって、その道にはたくさんの分岐点があって、その分岐点の中からひとつの選択肢を選びだす時。その時必ず、浮かぶその横顔は貴方だった。貴方のその、横顔だった。
――――私が道に迷った時、貴方は優しく腕を差し出してはくれない。けれども必ず、見とどけてくれる。私が間違った答えを、導き出さないように。
何気なく彷徨わせた視線の先が、何時も同じだと気付いた瞬間にこれが恋だと気がついた。けれども私はその気持ちに気付いてもどうしていいのか分からずに。分からずに、ただ。ただ戸惑うだけだった。
『ハール隊長』
あの頃はずっとそう呼んでいた。そうすることで気持ちに区切りをつけていた。この人は私の上官で、それだけの存在なんだと。それ以上の想いは持ってはいけないんだと。けれども、気持ちを止める事は出来なくて。
『―――何だ?ジル』
何時もの気のなさそうな声。この声が厳しく強いものに変わる瞬間を私は知っている。その瞬間を、知っているから私はこの人から目を離せなくなっていた。
『父が呼んでいました。次の戦いの事で話があるって』
『そうか、ありがとう』
ほら、今。今、一瞬で変った。父の名前を出した瞬間この人は『軍人』の顔になる。普段のどうしようもなく不真面目で、いい加減な顔を捨てて。そんな顔をさせる父を羨ましいと思ってしまう自分は、きっと。きっとどうしようもない程、子供だったんだろう。
何時もその背中を追いかけていた。大きくて広いその背中を。
『ハール隊長、待ってください』
追いかけて、追い付きたくて。必死になって、着いて行っても。
『そんなめんどくさいこと出来るか、お前が俺に追い付いて来い』
その大きな歩幅は、どんどん先に進んで行って。ずっと先に進んで行って。
『だってハール隊長が早すぎるからっ』
私の前にいる。何時も、私の前にいる。私は隣に並びたいのに。
『そう簡単にお前に追い付かせるか―――お前なんかに』
隣に並んで、同じものを見たいのに。同じものを、感じたいのに。
「―――お前なんかに追い付かれたら…俺はあの人に顔向け出来ない」
ハール隊長からハールさんに呼び名が変わって、隊長ではなくなった日、ぽつりと貴方はそう言いました。ずっと追いかけていた背中が振り返って、そして。そして初めて見せてくれた、その顔と瞳は誰も…父すらも知らないものでした。
ずっと、追いかけていた人。恋だと気付いたその日から。恋だと気付くずっと前から。隣に並びたいと思った人。同じものを見たいと、願った人。
「なのになんでだろうな…今お前にそばにいて欲しいと思うのは……」
大きくて傷だらけの手が、私の頬に触れる。その手はとても暖かかった。暖かくて、優しいから。優しいから、私は…。
「お前の前に立つことが、あの人に出来る俺の唯一の弔いなのにな」
「…ハールさん……」
私がデイン軍の人間ではなくなって、貴方は上司ではなくなった。裏切り者になり父と敵対し、その命を奪った。自分が信じる道のために、父の娘として恥じることなく生きてゆくために。父と、実の親と…戦った。
「お前の方がずっと辛いのに。俺は――――」
互いに頭の中では理解していた。こうなることは、分かっていた。けれども頭では理解していても、心は追い付かない。追い付いてはくれない。
「…ハールさん…私は…私はちゃんと父にとっていい娘でしたか?」
「―――ジル?」
「最期まで…父の目に映る私は…父にとって…立派な娘でしたか?……」
私たちにとって何よりも意味のある人だった。二人にとってなくてはならない人だった。だからこそ、こうして。こうして大きくぽっかりと空いた心の空洞を、どうしていいのか分からなくて。
「…立派な娘だったさ…あの人が安心して…逝けるくらいに……」
分からないから、触れた。どうしていいのか分からないから、触れる。こうして、生きているぬくもりを感じることで、少しでも。少しでも失った破片を、埋めようとしている。
「…だから、泣くな…ジル……」
大きな手がそっと。そっと零れる涙を拭ってくれた。けれども私は止められない。涙を、止める事が出来ない。だって。だって……
「…無理です…無理です…だって…ハールさんだって…泣いている……」
貴方の瞳から涙が零れているから。一筋の、涙が。それは貴方が。貴方が初めて見せてくれた、剥き出しの心だった。
零れた涙に、そっと触れてみた。綺麗な、涙に。
「…ハール…さん……」
その熱い雫が、同じだった。私と同じ、だった。
「…ジル……」
望んでいたものなのに、望んでいた事なのに。
――――同じ位置に立ちたいとずっと思っていたはずなのに。どうして、こんなにも。こんなにも、哀しいの?
ずっと追いかけていた人。ずっと追い続けていた人。同じ場所に立ちたくて、同じものを見たくて。必死になって追いかけていた人。けれども。けれども、こんな風に。こんな風に同じものを見たくはなかった。こんな事で同じ位置に立ちたくはなかった。こんな風に向き合うんじゃなくて、もっと。もっと違う事で、向き合いたかったのに。
「…ハールさん……父は…お父さんは…安心出来たかな?…私は大人に…なれたかな?…何も見えてないただの子供じゃなく…ちゃんと…ちゃんと…っ…!……」
お父さん、ねぇお父さん…私…私はお父さんにとって、誇れる娘でいられた?私の事で心を煩わせることなく、安心して眠れた?
「…私は…間違って…なかった?…これから先も…間違えなく生きて…いける?お父さんの娘として…ちゃんと生きてゆける?……」
私はちゃんと、立っていられている?間違うことなく、選択肢を選べている?私は、父を失ってまで、この場所に立っていてもいいの?
「…それはお前が…決める事だ…これから先…お前が……」
「…ハール…さん……」
「―――お前がこれからどうやって生きてゆくか…それはお前自身が決める事だ。お前が決めて、そして選ぶんだ。その選択肢が間違っていても、お前自身の意思が決めた事ならば、それが答えなんだ。それがシハラム様への答えなんだ」
頬に触れていた手が、そっと。そっと背中に廻る。そしてそのままきつく抱きしめられた。その強さが何よりも嬉しくて、何よりもつらかった。
初めて声を上げて泣いた。生まれて初めて声を上げて。
そんな私を抱きしめながら、貴方も。貴方も、泣いた。
唇を噛みしめて、肩を震わせて、泣いた。
―――――私たちは全てを捨ててでも、父のそばにいるべきだったのだろうか?
今となってはそんな思いは、無意味だということは分かっている。こうして選んだ道から戻ることは出来ない事も。それでも。それでも、こんな風に剥き出しになった弱さは、そうした思いを呼び起こしてしまう。けれども、それ以上に私たちは……。
零れる涙を拭わずに、そのまま。そのまま見つめあった。
「…お前は…生きろ…シハラム様のために……」
みっともないとか、恥ずかしいとか、そんな感情はどこにもなくて。
「…自分自身のために…そして……」
剥き出しの想いを。弱くて壊れそうな心を、こうやって。
「…俺のためにも…生きてくれ……」
こうやって、隠すことなく見せる。見せられる相手が、いる。
――――何時も進む道は手探りで、正しい答えなんて通り過ぎてみなければ分からないけれども。それでもこうして、探し続けるしかないのだから。
見つめて、見つめあって。そのまま唇を重ねた。そこから触れあう熱だけが、今生きていると感じられるものならば。それだけでも、私たちはきっと。きっと、間違っていないのだろう。この選んだ、選択肢が。だって、暖かいから。だって、優しいから。そこに命の鼓動を感じるから。
「―――俺にとって、お前の前に立ち続ける事がシハラム様に出来る唯一の事だから。でも俺自身にとっては振り返った先に、お前がいることが―――」
その先を私はきっと一生聴く事はないだろう。そして貴方はそれを私に告げる事はないだろう。でも、それでいい。それで、いい。きっと最期に私たちが辿り着いた場所が、その言葉の答えをくれるだろうから。
何もかもが、貴方だった。どんな場面でも、どんな瞬間でも、貴方の存在が私にはあった。―――何も、かもが。