No way to say



目を閉じて浮かぶものは、ずっと変わらなくて。ずっとずっと、変わらないもので。


『トパックおにいちゃんっ!』


名前を呼べば振り返って、微笑ってくれる。太陽みたいな笑顔で、私を見て笑ってくれる。私はその瞬間が何よりも大好きだった。大好きだったから、いっぱい。いっぱい、名前を呼んでいた。
『あのね、かたぐるまして。空をいっぱい見たいの』
『ああ、いいぜ。ほら』
そう言ってしゃがみ込んで私に背中を差し出してくれる。小さな私にとってそれは、とても大きなものに思えたの。広くて大きくて、とても安心出来るものに。
『わーいありがとう、おにいちゃん。大好きっ!』
『よーし、エイミ。行くぞ、しっかり掴まっていな』
『はーい』
落ちないようにぎゅっとしがみ付いたら、その瞬間に駆け出すのは何時もの事で。そうやってふたりで風を感じながら、少しだけ近くなった空を見上げる瞬間が何よりも大好きで。
『おにいちゃん早いー早いー』
『俺は駆けっこだったら誰にも負けないぜ』
頭上ではしゃぐ私に対して、何時も決まってあなたはそう言った。身長は負けてるけど…走るのなら誰にも負けないんだぜって。
『うん、誰にも負けないよ。おにいちゃんが一番だよっ』
だから私は何時も言っていた。一番だって。おにいちゃんが、一番だって。身長も駆けっこも本当は全然関係ない場所で、あなたが一番だって。私の一番は、ずっと。ずっと、あなたなんだって。


『エイミの一番は、トパックおにいちゃんだよ』


どんなことでも、出来るんだって。なんだって、出来るんだって。子供特有の無邪気で何も知らない心で、私は本気で思っていた。おにいちゃんと一緒ならば、怖いものは何もないんだって。何ひとつ、ないんだって。



不思議だね、ふたりだったら何でも出来ると思っていたのに。こうして大人になって向き合ってやっと気付くんだね。ふたりだから、出来ない事があるんだって。どうしても、出来ない事が、あるんだって。
「…お兄ちゃん……」
差し出した指先を包み込んでくれる手のひらは、あの頃とずっと変わらない。優しくて大きくて、そして暖かい手。何一つ、変ってはいないもの。でも。
「…エイミ……」
でも、違う。こんなにも指先の形は変わってしまった。すっぽりと包まれていた手のひらは、今はこうして指を絡めるようになっていた。こんな風に指先を絡める意味を、知ってしまった。
「ううん…お兄ちゃんじゃない…もうトパック…そう呼んでも…いいよね……」
子供のままでいられたら、きっと。きっとこんなに苦しくはなかった。こんなにも切なくなかった。けれどもこんなにも…誰かを愛するという意味を知らなかった。
「…ああ、そうだな…エイミ……」
繋がった指先から分け合うぬくもりの暖かさが、嬉しくて哀しい。泣きたくなるくらいに、どうにもならない想いが押し寄せてくる。けれどもそれを。それを止める術は何処にもなくて。
「もうお前は俺の背中を追いかけていた子供じゃない…そして俺も…何も知らずに笑っていられたガキじゃない…」
変わらないものなんて何処にもない。時間というものが少しずつ形を、想いを、変えてゆく。それを止める事は誰にも出来ない。
「うん、そうだね…そうなんだね…でも……」
「お前が俺の後をずっと追いかけてくれるガキだったら…良かった。でもお前はこんな風に俺の前に立って、こうして真っすぐ向き合おうとしている。同じ場所に立っている」
「立っているよ、トパック。だって私は貴方が好きなんだもの。だからこうやって、同じ場所に立つの。貴方と同じものを見て、同じ事を感じたいから」
見上げるだけだった。見上げる事しか出来なかったから、分からない事がたくさんあった。でも今は分かる。分かる、から。こうして真っすぐ瞳を見つめる事で、こうしてその剥き出しの表情を見返す事で。貴方の気持ちが、貴方の心が…痛いくらいに分かるから。
「子供だったら、良かった?何も知らないままで、無邪気に纏わりつく子供だったら良かった?この気持ちに気付かずに、何も知らないままだったら良かった?」
繋がった指先がきつく結ばれる。無意識のうちにふたり。ふたり、互いの手を強く握っていた。嬉しくて、哀しいね。こんな時に同じ想いだってことに気付くのは。気付いて、しまうのは。
「―――それでも私は恋をしていたよ。子供でも…貴方に恋をしていたよ。貴方だけを…好きでいたよ……」
「…エイミ……」
「だから変わらないよ。時を止めようが、時間を戻そうが…どんな場面でもどんな瞬間でも、私は貴方が好きなんだから」
私の一番は貴方だった。どんな時でもどんな瞬間でも、ずっと。ずっと貴方、だった。それだけはどうやっても、変わらないものだから。



ずっと自分の後についてきた子供が、ある日真っすぐに俺の目の前に立って告げた。
『―――好きなの、トパック』
お兄ちゃんと呼ばずに、名前を呼んで。俺の名前を、呼んで。
『私は貴方が好き。ずっと好き』
そらされる事のない真っすぐな瞳で告げる。痛い程の強い意志を秘めた瞳で。
『好きです。トパック』
それが始まりだった。それが終わりだった。ふたりの子供の時間の終わりで、永遠の恋の始まりだった。そして。


――――そして、ふたりでいるのに、どうにもならないことがあるんだって、初めて知った瞬間だった。


生きてゆく時の流れが違うと気が付いた瞬間。お前は涙ひとつ見せず、微笑った。それはどんなものよりも綺麗なもので。哀しいくらい綺麗な笑顔で。そうして告げる―――好きよ、トパック…と。
それは、どうにもならないことで。どうにも出来ない事で。けれども。それでもお前は告げる。好きだと。俺を好きなんだと。俺だけを…好きなんだと……。



結んだ指先が、永遠じゃなくても。繋がった手のひらのぬくもりが、消えてしまっても。
「―――お前がこんな綺麗な女だって気付かなきゃよかった」
今この瞬間にその全てが消えてしまっても。重ねてきた時は消えないから。想い出はずっと、想い出だから。
「何それ、ひどいよ。今までは綺麗じゃないって言うの?」
この指先が離れる瞬間が、今なのかもっと先なのか、それは誰にも分からない。誰にも分からないのだから。
「気付けなかったら良かった。俺がこんなにも―――お前に惚れていた事に」
分からないから、だから。一緒にいて。一緒にいてください。どうにも出来ない事だと分かっていても、どうにもならない事だと分かっていても、それでも私は貴方がいい。ううん、貴方でないと駄目だから。
「―――エイミ…ずっとと約束できない俺でもいいか?お前とともに死ぬ事が出来ない俺でもいいか?」
「貴方が、いい。ううん…貴方じゃないと嫌。約束なんていらないから、だから」
いらないよ。なにも、いらない。だからそばにいてください。私と一緒にいてください。わたしのそばに…いてください。
「…エイミ…お前に俺が出来る事は…きっとそれだけだ。それでも、いいか?」
「…はい…おにいちゃん…ううん…トパック……」
淋しくないよ、独りになっても。だって今ここに貴方のその笑顔があるから。太陽のような貴方の笑顔があるから。だから大丈夫。大丈夫、だよ。



見つめあって、そっと。そっと重ねる唇。
「…大好き…トパック……」
重ねて離れて、再び重なって。それが。
「…俺もだ…エイミ……」
それがきっと。きっと、ふたりの刻む時。
「…お前が…好きだ……」
ふたりが、今まで刻んできて、そして。


――――そしてこれからも、重ねてゆくもの。最期に離れても、また。また、触れあえるように。



私は誰よりも幸せな娘だ。世界中の誰よりもしあわせな女だ。だって貴方に出逢えた。貴方に恋をした。最初の恋が、最期の恋だった。その恋はこうして結ばれた。ただひとつのものが、ただひとつの願いが、叶えられたのだから。これ以上のしあわせは何処にもない。何処を捜しても、きっと。きっと見つからない。


――――貴方を好きだという気持ち以上に、私を満たしてくれるものは何処にもない。


どうにもならないこと。どうにもできないこと。でも。でもそれ以上に、私にとってはこうして結ばれた手のひらの方が大事。こうして結びあった心の方が大事。ともに死ねなくても、終わりが必ずやってきても。それでも、こうしてふたりの気持ちが繋がった事が。たったひとつの想いが…結ばれた事が。



目を閉じて浮かぶものは変わらない。変わらないただひとつの笑顔。貴方の太陽のような、笑顔。