その声を、きかせて。



――――人を愛するという意味を理解しても、心は追い付けなかった。加速した想いは、私の気持ちよりもずっと。ずっと、先に進んでいって戻る事が…出来なかった。


貴方の声が、聴きたい。それだけでいいから。


絡めた指先が永遠でない事は私が誰よりも知っていた。それでも私はその指を取り、自らの指に絡めた。消えそうな体温と、微かなぬくもりを結び合わせて、ただひとつの絆を作った。それが本当に正しいことだったのか、今になっても分からない。分からない、けど。それでもこうして結びあったぬくもりだけは確かに『ここ』にあったのだから。


声が、降り積もる。そっと、降り積もる。
『ミカヤ、好きだ』
不器用で、でも優しくて。迷いのない声。
『俺はずっとミカヤだけが好きだから』
その声が私の全てを埋めてくれたならば、きっと。


――――きっと、少しだけ、さびしくない……



しあわせになりたいなんて、そんなものは貴方を願った瞬間に諦めた。刹那の幸福と、永遠の絶望。どちらも私は受け入れた。貴方を願った、この瞬間から。
「ミカヤは俺が護る。どんな時でも」
ずっと真っすぐな瞳を向けていてくれた。真っすぐすぎて、時には私の内側を傷つけてしまう程の。それは何一つ迷いのない、強い強いもの。私にとってそれは羨ましくもあり、そして妬ましくもあるものだった。その強さの意味を私は知っている。そしてその強さが永遠でない事も。どんなに願っても叶わない事があるという事を。
「…ありがとう、サザ……」
私の背丈の半分以下だった幼い子供は、何時しか私の身長を越え、こうして。こうして私を見下ろすようになっていた。枯れ木のような細い手も、今は。今はこうして私の全てを包み込んでしまうほど、大きく広いものになっている。私の全てを隠してしまえるほどに。
「…ありがとう……」
この腕に包まれて永遠の眠りを願う事もあった。一番幸せなこの瞬間を胸に刻んで全てが終われればと。けれどもそれ以上に。それ以上に私は貴方の全てを望んだ。貴方の人生全てを。これから歩む貴方の命を見届けたいと。ずっと貴方を、見てゆきたいと。


――――貴方の全てを望んだ。貴方の『人生』すらも望んだ。浅ましい程に私は、貴方だけを求めていた。


身体を重ねるたびに、泣きたくてたまらなかった。包まれる暖かさがあまりにもしあわせだったから。満たされる想いがあまりにも夢のようだったから。けれども泣いてしまったら、この瞬間が壊れてしまうような気がして、どうしても。どうしても、泣く事が出来なかった。零れた雫から『しあわせ』までも流されてしまうような気がしたから。
「―――ミカヤ、好きだ」
髪を撫でられながら、囁かれるこの瞬間が何よりも好き。普段の羞恥心も何もなくて、剥き出しになった貴方の気持ちが聴けるこの瞬間が。
「私もよ、サザ。貴方だけを愛しているわ」
貴方の好きと私の愛は同じようで少しだけ違っている。貴方はただひたすら『女』としての私を愛してくれた。でも私は貴方の『男』以上に貴方の『存在』全てを愛したの。

だって貴方は私の子供で、私の弟で、私の恋人で、私の家族なのだから。

貴方の全てが好き。貴方の全てが大事。貴方の命そのものを…愛している。その髪もその瞳もその腕も、その声も。貴方と名のつくもの全てが、私にとっての全てなの。
ごめんね、ずっと一人で生きてきたから。気が狂うほどの時間ずっと。ずっと、独りだったから。私の感情の全てが貴方に流れてしまうことを、私の全てが貴方に向かってしまう事を、赦してね。
「…貴方だけを…ずっと……」
流れて飲み込まれて、混じり合って。その先に在るものが何なのかは、私にはもう分からなかった。けれどもこれだけははっきりと言える。私は貴方という命をただひたすらに愛しているのだと。


絡めた指先の形が変わっていっても、それでも愛していた。それでも、愛している。


初めて出逢った時と同じように貴方の手は枯れ木のようになっていた。そしてあの頃と同じように、私は貴方の瞳を見下ろしていた。今は濁ってしまった翠色の瞳を。
「…サザ……」
名前を呼べば視線がかち合う。けれども、もう貴方には分からない。『誰が』貴方の名前を呼んでいるかということなんて。
「今日はね、太陽の光がいっぱいで…とても暖かいわよ」
伸ばされた手に指を絡める。カサカサになってしまった指先。薄い肉が今にも剥がれてしまいそうな程、細い細い指先。でもね、伝わるよ。微かなぬくもりだけは、伝わるよ。
「とてもね、暖かいわよ」
開いた窓から吹いてくる風は優しい。ずっと、優しい。この大地の風はこうやって、ちっぽけな私たちの人生をそっと見ていてくれる。見ていて、くれる。
「サザの手も…暖かいね……」
望んだのは貴方自身。愛したのは貴方の命。そんな貴方の全てを願ったのは私。だからこうして貴方の人生が終わるまで、見てゆくの。それはきっと。きっとどんな愛し方よりも欲深いものなのだろう。でもそれは私が望んだ事だから。
「…暖かい…ね………」
もうすぐ貴方の命の終わりが来る。その瞬間すらも、全部。全部、私だけのもの。それはどんなに。どんなに贅沢で、どんなに貪欲なものなのだろうか。


窓から吹いてくる風がそっと。そっと花びらを貴方のもとへと降らせる。それは弔いの花。終わりのための、花びらが降り積もる。ひらり、ひらり、と。そして『私』という名の物語が完成する。


「…サザ…ありがとう。貴方の人生を私にくれて…全部私にくれたから…だから私はしあわせだった…ずっと独りで生きてきたその時間すら思い出せないほど…思い出せないほど私は…私は貴方の想い出で埋められているの…私の全ては貴方で……ありがとう……そしてごめんなさい…ごめんなさい……貴方の全てを…私が貰ってしまって……」


微かに動いた唇が形取る言葉の意味を私だけが知っている。それは私が望んで願ったもの。そして何よりもの私の罪。貴方への、罪。



――――最期に望む事はただひとつ。ただ、ひとつ。その声を、きかせて。