目を閉じた瞬間に浮かんでくるものを逃したくなくて、必死になって掴もうと手を伸ばした。ただ必死に、この手を伸ばした。
――――そなたが生きている場所が私の夢の中だけならば、私はずっと。ずっとこの夢の中にいる。もう二度と目覚めなくていい。もう誰の目に触れなくてもいい。そなたがここにいるのならば。
差し出された指先に自らのそれを必死になって絡めた。幼い私が出来る事は、それだけだったから。そうすることでしか、気持ちを伝える方法が分からなかったから。だから私は夢中になってそなたの指先に触れて、絡めて、そして。そして結んだ。
『サナキ様の手はとても小さいですね…私の手のなかにすっぽりと収まってしまう』
『私の手が小さいのではない。そなたの手が大きいのじゃ、ゼルギウス』
すっぽりと収まってしまう私の小さな手。どうやっても、そなたを包み込む事は出来ない。どうやっても、そなたの全てを掴むことは…出来ない。
『ええ、サナキ様。私の手は貴女を護るために存在している手…だからサナキ様をこうやって全部包みこめなければ意味がないのです』
『駄目じゃ。それじゃあ駄目なのじゃ』
どんなに背伸びをしても届かない。どんなに追いかけても追いつかない。どんなに全てを包み込みたくても、包み込めない。それは永遠に届かない距離。それが嫌だった。それがどうしても嫌だった。
『私がそなたを護れねば嫌なのじゃ』
今思えば何も知らない子供だったから言えた我が儘だった。けれども私にとってのただひとつの願いだった。たったひとつの想いだった。そなたに対するただひとつの。
『ありがとうございます、サナキ様。私はその言葉だけで十分です。それだけで…幸せです』
そっと、微笑う。柔らかく微笑うその顔が、私は大好きだった。本当に大好きでその顔を見るためだったたら、どんな事でも出来るんだって本気で思っていた。どんな事だって、出来るんだって。
そうやって何も知らない幼い私は、初めて知った恋をただ必死になって追いかけていた。
やっとの思いでその背中に手が触れた時。そのぬくもりに触れた瞬間に。
『…サナキ様…立派な…』
見上げる事しか出来なかった視線を見下ろした瞬間。はみ出しながらもその手を包み込んだ瞬間。
『…立派な…皇帝になって…ください…』
全てが、終わった。私自身の『個』の時間が、静かに終わった。
――――止まっていた世界の時が動き出した瞬間、私自身の心の時は永遠に止まってしまった。そなたのぬくもりとともに、時間の流れに連れ去られてしまった。
夢を見る。そなたの夢だけを、見る。それだけがしあわせ。それだけが、ただひとつの私の『現実』。瞼の奥に在るそなたの笑顔だけが、本当の事だった。
「―――ゼルギウス…私は立派な皇帝になれたじゃろうか?」
瞼を開いた先に在るものは、無機質な『皇帝』の私室。四角い箱の中。こうして日常は動き、少しずつ進んでゆく。その中で生きている私は、まるで他人のようだった。
「民の望む『皇帝』に…なれたじゃろうか?」
今こうして生きている意味を捜しだした時、残っているものはそれだけだった。その気持ちだけが自分を生かし、時を進めている。それだけが、今こうして自分が『日常』を生きている理由だった。
「なれておれば良いがな。そうでなければ、そなたがいないこの場所にいる意味すらなくなってしまう」
自分自身の意思はあの瞬間に、閉じ込めた。ぬくもりとともに置いてきた。そうしなければ今ここにこうして立っている事は出来ないから。この無機質な空間の中に。
「…こうして命が動いている意味すら…なくなってしまう……」
部屋の中は暖かいのに、ぬくもりのない指先はとても冷たい。世界は希望に満ち暖かいのに、ぽっかりと穴の開いた心は凍えている。人々の幸せな顔を見て満たされながら、隣にいないその姿を捜す虚しさを感じる。そんな矛盾した想いは、哀しい程に自分にとっては真実だった。真実だからこそ…もがく事すら出来ない。
「…ゼルギウス……」
声に出して、確認する。確かにそなたは隣にいたのだと。手のひらのぬくもりは繋がっていたのだと。指先は結ばれていたのだと。
「…ゼル…ギウス……」
瞼を閉じる。そこに浮かぶ姿を追いかけた。消えないように必死に追いかけた。こんなになっても、私はそなたを追いかけている。ずっと、ずっと、追い続けている。まるで幼い子供のように必死になって、そなたの破片を。
夢と現実の境界線が曖昧になって、ぐちゃぐちゃに混じり合ってしまえたら。
『サナキ様、私は貴女の騎士です』
夢想もリアルも何もかもがなくなって、ただひとつだけのものが残れば。
『だからどんなになっても貴女を護ります』
それだけが残れば私は。私はもう何も望まないのに。何も願わないのに。
『―――サナキ様…私の大切なひと……』
そなたのぬくもりも、そなたの声も、そなたの瞳も、そなたの…愛も……
――――私のそばにいてくれさえすれば、もうなにもいらないのに。
瞼を開きたくない。目覚めた瞬間に消えてしまうその姿を、ずっと。ずっと留めておけないのならば。耳の奥に残る声が消えてしまうのならば。破片すら何処にもない日常ならば。
「…ゼル…ギウ…ス……私はそなたを……」
愛していると告げればよかった。幼い想いでも、越えられない気持ちでも。それでも言葉にすれば良かった。届かなくても叶わなくても、それでも。それでも伝えればよかった。繋がった指先のぬくもりよりも、もっと先に在る言葉を、ただひとつの想いを。
喉の奥に飲み込まずに、全てを壊しても。大好きな笑顔を困らせる事になっても。それでも、伝えればよかった。どうにもならない事だと、分かっていても。
「……して…いる………」
目を閉じたまま、そっと告げる言葉は。私の中のそなたに伝える想いは、一体どこにゆくのだろう。何処に辿りつくのだろう。何時か遠い場所へと旅立った時、そなたに届くのだろうか?いつか届いて、くれるのだろうか?
「…あい…してい…る……」
耳の奥から聴こえてくる音があった。綺麗で哀しいメロディーが。そっと、耳の奥に響いて降り積もってゆく。そっと、音が降ってくる。
全てを振り切るように瞼を開ければ、そこにあるのは小さなオルゴールの箱。そなたが私にくれたただひとつの形あるもの。ああ、そうだ。この音が耳の奥に何時も降っていた。そっと、降っていた。
そなたを失ってから一度も開いた事のない、ただひとつの音色がずっと。ずっと、私のそばに在った。いつも、そばに。
「…ゼルギウス……」
この蓋をあける時は全てが終わった時だと決めている。何もかもが終わって『私自身』だけになった時に開けるのだと。この夢と日常の境界線が失われたその瞬間に。ただの私になった、その時に。
――――それまでこの音は、私の耳元に降り積もってゆくのだろうか?降りづけて…くれるのだろうか?