しずく



頬から零れ落ちた涙が波紋となって、水面に広がっていった。ぽつりとひとつ、広がって消えた。


手を伸ばせばそこにあった貴方の手に、ずっと。ずっと指を絡めていられたならば私は、もう他に何もいらなかった。何もいらないの、貴方さえいてくれたならば。
「―――トパック…私ね……」
涙は置いてきた。遠い場所に置いてきた。だから私は微笑う。貴方が好きだと言ってくれた笑顔をだけで自分を飾るの。
「どーした?エイミ」
こうして時を重ねて大人になっても、貴方の瞳はあの頃と変わらない子供のままで。ずっと変わらないものがここにあって。
「…トパックが大好き……」
「―――いきなり言うなよ…恥ずかしいだろーが」
「だって言いたいんだもん。大好きだから」
ずっと変わらないでね。どんなになってもそのままの瞳でいてね。私はその瞳をずっと見てゆくから。この先もずっと。
「…お前なー…」
半分呆れて、けれども何処か嬉しそうで。知っているよ、貴方が嬉しい時は、左の眉毛が少しだけ下がるの。何時も見ていたから、知っているよ。
「えへへ、大好き」
我慢できなくなって抱きついたら、そっと。そっと抱きしめてくれた。まだぎこちなさが残るけれど、それども何よりも優しい腕で。この腕の中に包まれていれば、私は怖いものは何もなかった。


告げられた事実はまるで他人事のように心をすり抜けていった。それは多分、自分自身が何処かで気付いていたから。
『…エイミ…あんたは印つきなのよ……』
子供の頃は分からなかった事は、こうして大人になっても分からなかった。印つきだからと、蔑まされる理由を。印つきだからと、疎まれる意味を。世界は変わったけれど、やっぱり変わってはいないんだと…それだけは理解した。
『…でもそんな事関係ない…あたしにとってあんたは大事な子供なのよ……』
けれどもそれすらも、こうして私を包み込んでくれる優しい腕の前では無力だった。それがどんな意味を持とうが、私に注がれる愛がある限り。
けれども。けれどもひとつだけどうしても。どうしても諦められなくて、けれども諦めるしかない事があった。


―――― 一緒に歳を取りたかった。ふたりでしわくちゃな顔になって、笑っていたかった。お互い皺だらけのかさかさな手になって、それでもこうして指を絡めていたかった。


きっと貴方はずっとこうしていてくれるね。私が望めばこうして抱きしめていてくれる。貴方はそういうひとだ。だから私は貴方を好きになった。どうしようもない程に、貴方だけを好きになった。
「…エイミ…何かあったのか?」
この手がしわくちゃになっても、私よりも小さくなってしまっても、きっと。きっと貴方はずっと。ずっと私を抱きしめてくれる。
「どうして、そんな事を思うの?」
「いや…お前さー昔から泣きそうな時は、何時もこめかみがぴくぴくすんだよ。今もそうだったから……」
「よく見ているね。もしかしてずっと私だけ見つめていてくれたの?」
嬉しすぎて泣きたくなったから、逆に茶化した。涙は置いてきたのだから。遠い場所へと、置いてきたのだから。
「お前なー…まあ、ガキの頃は『兄貴』としてお前を監視してたからな」
「監視ってひどーい。せめて面倒でしょっ?!」
「いやいや、昔のお前は今もだけど手に負えないほどじゃじゃ馬で…ってどうしてお前はすぐ俺をグーで殴るんだっ!」
「トパックの馬鹿っ!」
「…ってその馬鹿に惚れたのは何処のどいつだよ……」
「う〜」
「大好きなんだろ?俺が」
その言葉は絶対に否定できない。だってこんなにも溢れているから。大好きという気持ちが、自分の全てから零れて溢れているから。
「…うん、大好き……」
ささやかな抵抗は無意味だから背中に腕を廻して想いを伝えた。重なっている個所から零れてくる想いを伝えた。貴方はそれに答えるように私にキスしてくれた。そっとひとつ、キスをしてくれた。


辛くないと言えば嘘になる。哀しくないと言えば偽りになる。けれどもそれ以上に幸せな事がある以上、私は生きてゆけると思った。どんな時でもどんな瞬間でも前を見て生きてゆけると。
『あんたは大事な私の子供…それだけが本当の事だからね』
うん、お母さん。私は貴方の子供。だから強くなるよ。真っすぐ前をちゃんと見て、胸を張って生きてゆくよ。
『エイミは俺の自慢の娘だ。こんな美人他にはいないからな』
言いすぎだよ、お父さん。でもね、嬉しいよ。私はお父さんの娘でいられて嬉しいよ。だからお父さん見ていてね。私が間違えないように…生きてゆけるように。
私のそばには何時も優しい愛があったから。暖かい愛があるから。だからこの先どんな事があっても大丈夫。大切な人が皆先に死んでしまって、独りぼっちになってもきっと大丈夫。この記憶と心の中には、ひとつひとつ刻んであるから。零れることなく、刻んであるから。そして、何よりも。



「…何かあったならちゃんと俺に言えよ…俺はこれでもお前の…その『恋人』…なんだから……」



何よりも貴方の愛が。貴方が与えてくれるこの想いが。
「…うん…トパック…大丈夫……」
優しく降り注ぐこの愛がある限り、私は。
「…大丈夫だよ…こうして、ね……」
私は、大丈夫だから。私は、幸せなまま生きてゆけるから。
「…こうしてこの腕の中にいられれば……」
貴方の愛を胸に抱いて。貴方への想いだけで心を満たして。


一緒に歳を取る事が出来なくても。一緒にしわくちゃな笑顔が出来なくても。皺だらけになった互いの指を絡めることが出来なくても。


貴方が、好き。本当に、好き。ただそれだけで満たされる想い。ただそれだけで幸せになれる気持ち。ただそれだけで…生きてゆける愛……。
「ああ、幾らでも…お前が望むなら俺は…俺はずっとこうしてやんからな……」
涙は置いてきたの。遠い場所へと置いてきたの。だから笑顔で埋める。笑顔だけで埋めよう。ふたりのこれからの日々を。はみ出しそうな太陽のような笑顔だけで。



貴方がいなくなるその日まで。その日まで、この涙は置いておくの。あの水面に。波紋として広がった、水の中へと。