――――その手を、ずっと。ずっとこの先も結んでゆけたのならば……
睫毛が触れる距離で、その瞳を見つめた。そこには何一つ濁ったものはなく、ただひたすらに綺麗な色彩だけがあった。
「…女王…貴女の瞳を見ているだけで…私はとても幸せな気持ちになれます」
そのまま。そのまま唇を重ねても良かったけれど。けれども今はもう少し、その瞳を見つめていたいと思った。もう少しだけ、見ていたいと…願った。
「何を言う、私の方が満たされている。お前の綺麗な瞳を見ているだけで」
そこにある穏やかな笑みが何よりも好きだった。普段の『女王』として纏う毅然とした表情も愛しいものだったが、それ以上にこうして自分だけに見せてくれるその笑みが。
「いいえ、今は私の方が女王よりもずっと満たされています」
「何だ、ラフィエル?私と張り合うのか?」
「い、いえ…私はそんなつもりでは……」
「冗談だ。そんな事で張り合っても仕方ないだろう?」
くすりとひとつ口許に浮かべた笑みで、この他愛のない言い合いは終わりを告げた。その代わりに、そっと。そっと睫毛が、重なる。唇が、重なる。
時々、考える。私が貴女の為に何が出来るのだろうかと。何をしてあげられるのだろうかと。私は何時も貴女に護られている。私は何時も貴女に勇気を貰っている。絶望の淵に落とされていた私に手を差し伸べてくれたのは貴女で、その強い光で私を導いてくれた。今ここに私という存在があるのは貴女がいるから。そして今私の全てが満たされているのは貴女がそばにいてくれるから。
――――それなのに私は貴女から与えてもらうばかりで、何一つ返せてはいない。
こんなにも貴女が大切なのに。こんなにも貴女を愛しているのに。
「…女王……」
私が貴女の為に出来る事は何?貴女の為にしてあげられる事は何?
「…愛しています…女王……」
もしも私の手がもっと大きかったならば、貴女の全てを包み込めるのに。
「…誰よりも貴女だけを……」
私の身体がもっと強靭なものだったならば、貴女を護る事が出来るのに。
――――どうして何時も。何時も気持ちばかりが先に進んで、心が追い付けないのだろうか?
貴女の手がそっと。そっと私の髪を撫でる。その手は見掛けよりもずっと細い。本当はこんなにもしなやかで、繊細な手なのに。それなのにその手を自ら血に染めている。女王として、民を護るために。
「どうした?ラフィエル…何かあったのか?」
けれども今その手は、優しく私の髪を撫でてくれる。何よりも優しく私の髪を撫でてくれている。
「…どうしてそんな風に思うのですか?……」
「お前の瞳が揺れている―――そんな時、何時もお前は何か『不安』を抱えている」
濁りも、曇りも、何もない。ただひたすらに綺麗な貴女の瞳は、迷うことなく真っすぐ前だけを見ている。それこそが貴女の強さであり、それこそが私が焦がれてやまないものだった。愛しているもの、だった。
「…女王は…本当に全てをお見通しなのですね…」
「当たり前だ。私を誰だと思っている?お前の―――伴侶なのだからな」
何よりも強く、何よりも綺麗で、何よりも鮮やかな貴女。そんな貴女だからこそ、私は憧れ、恋焦がれた。だからこそ貴女にとって何よりも『必要』な相手になりたかった。
「…その言葉を何よりも嬉しく思います。私は貴女のその言葉がある限り…前を見てゆける…」
私にとって何よりも必要な人。何よりも大切な人。零れる言葉の一つ一つが、弱い私の心を強くする。貴女の手が、声が、私にとっての『光』だから。
「でも今は、不安なのだろう?」
貴女の瞳に映る私が、もっと。もっと強いものであればと願う。そうすればもう少し、貴女の口許を柔らかいものへと変えられるのに。
「…女王…私は…ティバーンのようになりたいです……」
強くなれれば貴女とともに戦えるのに。こんなにも貴女の手だけを血に染めさせはしないのに。けれども無力で。私は、無力で。
「―――前にもそんな事を言っていたな…憧れていたとか」
「ええ、あの方のように強ければと願わずにはいられません」
力があればと願っても、戦う事の出来ない私にはどうする事も出来なくて。他人を傷つける事が出来ないのは、鷺の本能として埋め込まれているものだから、どうにもならない事だけれども。それでも、と。それでもと…思う。
「…そうしたら…私も貴女とともに戦えるのに…足手まといにならずに…貴女と同じ場所に立てるのに……」
「…ラフィエル……」
「――――この手で貴女を…護る事が…出来るのに……」
背中に廻した自らの手に自然に力がこもるのが分かる。貴女にとっては些細な変化でしかないのだろうけれど。それでも私にとっては精いっぱいの想いで。精いっぱいの…願いで。
「…馬鹿だな…お前はそんな事を気にしていたのか…今でも充分お前に私は護られていると言うのに……」
「…女王……」
「―――お前の優しさが…私を『ここ』に留めているというのに……」
見つめる瞳の先が、優しい。ひどく優しくて、そして柔らかく暖かい。その顔は私がずっと。ずっとそうしてほしいと願っている貴女の笑顔だった。一番愛しい貴女の笑顔、だった。
「…お前がいるから私は…私でいられるのだから……」
時々、湧き上がるこの衝動に身を任せてしまいたいと思う時がある。獣である以上消す事の出来ない本能。戦いたいと――――戦い続けたいと。そんな耐えがたい欲望をお前の瞳が、声が、押し留めてくれる。この場所へと。ヒトの地へと。
――――私は女王である以上にヒトなのだから。お前の『伴侶』なのだから。
その背中の翼は折れ、もう飛ぶ事は出来ないけれど。けれどもお前の翼は私を連れてゆく。暖かい場所へと、優しい場所へと、安らぎのある場所へと。
「お前だけが私をこうして穏やかな心にさせる。お前だけが、だ」
注がれる優しい愛が。心に降る暖かいものが。ただ静かに降り積もる柔らかい想いが。その全てが、そっと。そっと私の心を満たしてゆく。それはお前だけにしか出来ない事。お前がいたから、知る事が出来たもの。お前がいるから…こうして手に入れられたもの。
「他の誰も代わりはいない―――お前だけだ」
私が『個』でいられる場所。唯一の場所。それを与えてくれたのはお前。お前だけなのだから。
「…愛しています…女王…貴女だけを……」
「―――ああ…ラフィエル…私もだ……」
もう言葉はいらない。降り積もる想いがあるから、こうして。こうして唇を重ねればその全てが伝わるだろう。想いの全てが。
指先が触れて、そして重なる。そこから広がる優しいぬくもりが、そっと。そっとふたりの世界を埋めてゆく。優しく甘く、埋めてゆく……。