きつく結ばれたこの指を離す瞬間を、瞼の裏で考える。そうする事で少しだけこれから訪れる淋しさを和らげようとした。けれども、やっぱり。やっぱり…淋しかった。
借り物の身体でも、伝わるものがあることが嬉しくて哀しい。こうして触れあって伝わるぬくもりが、全て私のものでない事が。こうして触れあっている、体温が。
「―――今あんたは『ユンヌ』だな」
「凄い、アイク。どうして分かったの?私まだ何も言ってないのに」
こんな事ですら、嬉しい。こんな些細な事ですら、私はいつの間にかどうしようもない程に嬉しくなっていた。馬鹿みたいに、心の中ではしゃいでいた。
「覚えた、あんたの気配は」
「む、気配って何よ、気配って…もうちょっと違う言い方はないの?」
「じゃあ、空気とか」
「…しょうがない、それで妥協するわ」
「妥協って全く…我が儘な女神さまだな」
呆れ顔の後で微笑うその顔が、好き。本当に大好き。その想いに気付いた時から、私はもう何度その笑顔を求めてきたのだろう?その笑顔をずっと見ていきたいと、願ったのだろうか?
「女神じゃない、ユンヌ」
少しだけ不貞腐れた表情のまま告げれば「わりぃ」と呟いて頭をひとつ掻く。その仕草に気付いた時、私はどれだけ嬉しかったのだろう?
「そうだ、あんたはユンヌだ―――他の誰でもない…『ユンヌ』だ」
そっと手を伸ばしてみた。この身体は借り物で、こうして触れるのは本当の私自身ではないけれど。それでもこうして。こうしてそっと触れれば体温は伝わってくる。ぬくもりは伝わってくる。これが私自身の手のひらでなくても。
「うん、アイク。私はユンヌだよ。他の誰でもない……」
伸ばした指先は自然と貴方の指先に絡まる。そっと、絡まる。このままきつく結んで離したくないと願いながらも、この手ではない本当の手で触れてみたいと思った。この身体ではない『私自身』で。でもまた知っている。私の願いがかなった瞬間に、この結び目が解けるという事を。繋がっている手のひらは、解かれてしまう事を。
――――心だけではなく、身体も結びたかった。全部強く結びたかった。
大きな手のひらが包み込んでくれる私の手は私自身のものではないけれど。それでもやっぱり私のもので。私自身が感じているもので。
「―――こんな風にあんたに触れていたら…サザに恨まれるな」
この体温を知っているのは私自身だから。今この瞬間、貴方のぬくもりを知っているのは私だけだから。それはとても幸せな事で、とても哀しい事で。
「これは『ミカヤ』の手のひらなのに…それでも……」
本当はキスをしたかった。唇を重ねたかった。けれども駄目だから。それは許されない事だから。だからこうして手のひらを結ぶの。きつく、結ぶの。
「…それでもこうして……」
ねえ、どうして。どうして私はこんなにも貴方を好きになってしまったのかな?どうする事も出来ないって分かっていたのに、どうしてこんなにも好きになってしまったのかな?そして。
「…俺が触れているのは…あんたなんだ……」
そして、どうして私たちは気付いてしまったのかな?互いの気持ちがこうして。こうして同じだってことに。
互いに気付かなければ良かった。そうしたらこんなにも苦しくなかった。
「…アイク…好き……」
けれども気付かなければ、きっともっと。もっと私たちは哀しくて。
「うん、知っている」
ふたりはもっと淋しくて。ふたりはもっと切なくて。だから。
「…大好き…アイク……」
だから気付けなかった一瞬の安息よりも、気付いてしまった永遠の苦しさを選ぶ。
「ああ、分かっている」
たとえそこに在るものが、終わりしかなくても。答えはひとつしかなくても。
唇を重ねられないから、言葉を重ねた。好きだという想いだけで、言葉の雨を降らせた。
瞼を閉じて感じる暖かさを、心で刻んだ。目には見えないものでしか結べない事があるのならば、私は心で結ぶ。想いを、体温を、願いを。
「俺もあんたが好きだから」
額を重ね合わせた。睫毛が触れる距離で互いの顔と瞳を見つめ合う。貴方が見ている私の顔は『ミカヤ』でしかないけれど。それでもこの瞳に映る想いは私だけのものだから。だから、ちゃんと見てほしい。『私』を見ていてほしい。
「ごめんね、アイク。抱きしめる事も出来なくて。キスも出来なくて」
「それでも俺はあんたを好きになったんだ…あんたの顔すら分からないのに。それでも俺は……」
身体を重ねる以外に、唇を触れ合わせる以外に、想いの全てを確かめる術があるとしたならば。それは一体どうすればいいのだろう?この想いを全部。全部、見せる為には。
「―――あんたに惚れたんだ」
言葉だけでどれだけ伝えられるのだろうか?もどかしい程に溢れて零れてゆく想いは。どれだけ声にすれば…全て見せる事が出来るのかな?
―――――皮膚をすり抜けて、もっと先のぬくもりで。もっと透明な感触で結べたならば。
ぎりぎりの戦いの日々で日常というものが失われ、静寂と聖の気の中で見つけたものはただひとつの『想い』だった。それはこの世界に相応しくないざわついた生身のモノだった。けれども、本当の想いだった。
「こんな状況の中で色恋沙汰に目覚める俺はどっかオカシイのかもな」
何もかもが止まった世界の中で閉鎖された空間の中で、初めて知った醜い程の熱い感情。剥き出しになった生身の思い。それを恋と呼ぶにはあまりにも儚く苦しい。
「それなら私の方がもっとオカシイよ――――女神なのに…恋をしたのだから……」
それでもこれは俺の感情で。俺の中に生まれた偽りない想いで。だから向き合った。今までそうやって生きてきたのだから、今もそうするだけだ。向き合って、もがいて、そして答えを出す。それが俺の生き方だから。
「そんな所まで俺たちは一緒なんだな」
「うん、一緒だよ。恋したのも一緒なら、オカシイのも一緒だよ」
狂った世界の中で、ふたりが見つけたものも何処かオカシイものなのかもしれない。何処かいびつで、何処か歪んでいて。けれども、それでも。
「…一緒、だよ……」
繋がっている指先は暖かい。哀しいくらいに感じるぬくもりに偽りは何処にもなくて。例え『ミカヤ』の手のひらであろうとも、こうしてふたりが結んでいるものは。
俺にとってあんただけが、真っすぐだった。あんただけが、はっきりと見えていた。
静寂だけが包み込む世界で、あんただけが生きていた。俺の視界の中で『生きて』いる。そこにある強い命の輝きは、目を細めたくなるほどに眩しいものだった。眩しくそして鮮やかに、俺の網膜に焼き付いて離れなくて。
「―――ユンヌ……」
離れないから見つめたら、見つめ返してきた。手を伸ばしたら、指先を差し出してきた。想いを声にしたら、答えが返ってきた。この恋の答えが返ってきた。
「…あんたが好きだ…それだけだ…それしかないんだ……」
想いしかなかった。ふたりにはそれしかなかった。この目に見えないものだけが全てだった。それだけがふたりの、全部だった。
きつく指先を結ぶ。解けないようにと願いながら、きつく。きつく、想いを結ぶ。身体よりももっと先の、皮膚よりももっと近い場所へと。この想いを結ぶ場所を見つける為に。
――――結び目が解かれないようにと、願った。叶わないと分かっていても…それでも願った……