最期のページ



「――――ゼルギウスっ!!!!いやじゃっ!!いやじゃあ……っ!!」


誰の目を憚ることなく声を上げて泣く目の前の小さな身体が、正直羨ましいと思った。こんな風に声を張り上げて、思いの丈を吐き出して、そして。そして泣きじゃくる事が出来る事が。


目を閉じて浮かぶものは、とても頼りないもので。形にする事が出来ずに、声として現実に零れる事もなくて。ただそっと。そっと私の胸の中に、誰の目に触れる事もなく存在している静かなもの。静かで、そして。そして儚いもの。

――――愛していたのよ。私は本当に、貴方を愛していたの。

結びあった指先の体温だけが消えずにこの手のひらに残っている。重ねあった肌の熱さすらもう何処にもないのに。それなのにこうして最後になって残るものは、この小さなぬくもりだけだった。穏やかでそして淋しいこのぬくもりだけだった。



『皇帝』という立場すら今は捨て、こうして感情のまま泣きじゃくるサナキ様の姿を見ている自分は、ひどくこの現実から遠い場所にいるような気がした。一番現実から遠い場所へと。
「―――サナキ様。今は泣いている時ではありません。泣くのは、全てが終わってからです」
「…タニス……」
「前をお向きください、サナキ様。ゼルギウスもそれを望んでいる筈です」
「…分かっておる…そうじゃ分かっておる…だが…ゼルギウスはもういない…何処にもいない……」
普段の凛とした姿は何処にもなく年相応の少女の顔で、声を殺すことなく泣き続ける。他人の目を憚る事すら忘れ、純粋な哀しみだけを剥き出しにして、そして。そしてその名前を声にする。言葉に、する。ただひとつの名前を。
「…うう…ゼルギウス…ゼルギウス……っ……」
そうやって心に溢れる想いを吐き出す事が出来れば、心が空っぽになるくらいに哀しみの全てを剥き出しにする事が出来れば。そうすればどんなに今が辛くてもきっと。きっと、昇華する事が出来る。想いを、哀しみを…自分の中から地上に吐き出す事が出来るならば。

――――いくなっ!ゼルギウス…っ!!私を置いてゆくな……っ!!……

地上に吐き出された哀しみは、こうやって世界に漂い何時しか違うものへと変わってゆく。時間という優しくも残酷な流れがそうやって人を前に進めてくれるのだから。けれども吐き出す事も剥き出しにする事も出来ずに、こうして身体の中に棘のように突き刺さった想いは。こうやって抉られたこころは、どうなるのだろうか?
サナキ様の叫びを耳元に残しながら、私はこの場所から逃げた。目の前にある貴方の『死』から目を背けた。貴方のいない現実から――――逃げ出した。



二人の間にあったものが果たして愛だったのだろうか?愛と呼べるものだったのだろうか?それは私には分からなかった。分からなかったけれど…それでも私は愛していた。確かに貴方を、愛していた。
「…ウス……」
名前を、声にしてみた。けれどもそれは全てが言葉として、声にはならなかった。どうしても喉の奥に痞えて、言葉にならなかった。
「…馬鹿ね…私も……」
目を閉じて浮かぶものがおぼろげなのは、きっと。きっと互いに全てを曝け出さなかったから。互いの全てを剥き出しにしなかったから。
「…貴方にとっての私と私にとっての貴方は…こんなにも違うのに……」
何度も肌を重ね合ったのに、貴方は最期まで私に全てを見せてはくれなかった。真実は何処にもなかった。ただそこにあったものは、隙間を埋めるだけの行為で。貴方の深い闇をほんのひととき…忘れさせるだけの行為。それでも。
「…それでも…愛していたの…それでも…貴方を…愛しているの……」
声を上げて名前を呼んで、叫ぶ事が出来たならば。想いの全てを吐き出して、曝け出す事が出来たならば。愛していると、貴方だけを愛していると。
「…愛して…いるわ…ゼル…ギウス……」
全てを捨てて何もかもを捨てて、叫びたかった。貴方の名前を呼んで、呼んで、呼んで、そして。そして狂ってしまえたならば。理性の糧を外して、現実という咎をなくして。ただ剥き出しになったちっぽけな私になって。そして貴方への想いを吐き出す事が出来たならば。

――――狂ってしまえたら楽になれる。全てを捨てて狂ってしまえたならば。

けれどもそれは許されるはずもなく、泣く事すら出来ない自分がいる。溢れそうな想いを閉じ込め、内側から染み出すものを抑える事しか出来ない。そうやって決して消える事のない楔が自身を貫き、ぼろぼろになってゆくのを止められない。分かっていても、どうする事も出来ない。昇華すら出来ない想いは、内側を蝕むだけでしかないのに。それでも。
「…愛しているの…貴方を……」
それでも、いい。消えなくてもいい。貫かれたままでもいい。全てがおぼろげになって歪んでしまっても。それでも貴方の存在がこうして私の中に消えないものを打ち付けるのならば。棘となって蝕んでしまっても、それが貴方ならば。


声を上げて、泣く。全てを剥き出しにして。
『ゼルギウスっ!!ゼルギウスっ!!』
名前を呼んで。何度でも、何度でも、呼んで。
『私を…私を…独りにするなあ…っ!』
それはとても綺麗でとても純粋で、そして。


――――そしてとても、残酷なもの。純粋過ぎて、残酷で、私を傷つける。



貫かれた熱よりも、熱い吐息よりも、結ばれた時の指先のぬくもりが。そっと結ばれた指先のぬくもりが、消えない。優しくて淋しい暖かさだけが…消えない。


私と貴方との間にあったものが、名前にする事が出来ないものでも。声にして世界に零す事が出来ないものでも。誰の目に触れる事もなく静かにそっと壊れてゆくものでも。それでも確かに結ばれた指先のぬくもりは暖かくて。暖かくて、優しくて、そして。そして淋しかったから。


「…愛しているわ…ゼルギウス……」


愛だった。私にとっては愛だった。確かにその瞬間、愛があったと。繋がっている指先にあったものは愛だったのだと。私の最期のページが閉じられる瞬間に、それだけを書き込む。確かにここにあったものは――――愛なのだと。