爪先立ちの恋



―――少しだけ、背伸びをした。貴方に追い付きたくて、少しだけ。


何時も気付けば追いかけていた背中だった。何気ない日常の中で、激しい戦いの中で、この視線が追い続けたのは、ずっと。ずっとその広い背中だった。
「………」
唇がその名前をかたどるように動いて、けれども声にはならなかった。心の中でもう一度名前を呟いて、そしてその背中を見つめて。
「―――ハールさんっ……」
見つめてその名を呼んだ。大切なただひとつの名前を声にした。その声に答えるように振り返る姿はジルが予想していた通りの、億劫な動作だった。
「何だ?ジル」
ぼさぼさの髪を掻き乱しながら、見下ろしてくる瞳。まだ何処か眠たげな瞳。けれどもこの瞳を見ていると、ひどく心が安らぐのが分かる。安心出来るのが分かる。
「あのハールさん、私」
そこまで告げて、けれどもその先が言えなくて。言えなくてジルが口を閉じた瞬間…そっとハールの口許が和らいだ。それはきっと。きっと、どんなものよりもジルにとっては。
「どうした、めかし込んで」
ジルにとっては大切な笑みだった。大事にしたいただひとつのものだった。


どうしても埋める事の出来ない距離があって。それはどうやっても追いつけないもので。けれども少しでもいいから。ほんの少しでいいから、近づきたかったから。近づきたかったから、爪先立ちで貴方を見つめた。


初めて口紅を唇に塗った。素肌ではなく化粧をした。普段は着ない色の服を着て、普段は履かない踵の高い靴を履いた。
「…へ、変ですか?……」
口許の笑みの意味が読み取れなくて、ジルは尋ねる。もしかしたら歳不相応な格好を笑われているのではないかと、そんな風に思えて。
「いや変とは言ってはいない」
「でも今笑ったじゃないですか?」
どうしてもこの人の前では思考が後ろ向きになってしまう。些細なことでも不安になってしまう。逆にいえばどんな些細なことでも…嬉しくなってしまうのだが。
「気にしすぎだ、そんな意味じゃない―――ただ」
「ただ?」
「どうしてそんな格好をしているんだろうと思っただけだ」
「…それは…その……」
改めて言われるとさっきした筈の決意が萎んでいってしまう。けれどもここで立ち止まっていたら前には進めないのだから。
「…その…ハールさんに見てもらうためですっ!」
「―――俺に?」
「はいっ!」
返事良く答えてみたものの、少しだけ驚いたような表情で自分を見下ろすその顔を見ていたら、あれだけ盛大に決心していた心が折れてゆく。違う、そんなんじゃいけないのに。
「何で俺に?」
「だってハールさん…その私の事子供扱いするから…だから子供じゃないんだって…その…」
真顔で問われてしまっては、答える自分が何だか情けなくなってくる。語尾まで小さくなってゆくのが自分でも分かって、何だか落ち込みそうになってきた。耐えきれなくなってその視線から逃れるように俯いてしまう。
「―――何だそんな事か」
「何だじゃないんです…私には…私には大事なことで…その…」
「ジル」
「はい?」
名前を呼ばれて反射的に顔を上げてしまうのはもう癖になっていた。その声に呼ばれれば、瞳を真っすぐに見返す事が。こうして視線を、重ねる事が。――――そして……


「……っ……!……」


一瞬何が起こったのか、分からなかった。気付いた時にはもうその感触が唇から離れた後だったから……。


唇が、触れた。そっと、触れた。
「これで満足か?」
触れて離れた瞬間、残ったのはヒゲの感触。
「――――ハ、ハールさんっ?!」
ざらついた無精ヒゲの大人の、感触。


「俺の前でそんな着飾っても意味がないぞ。俺はお前の普段の姿が好きなんだからな」


告げられた言葉の意味を確かめる前に、背中が向けられる。何時も、何時も、追いかけていた背中が。ずっと見てきた背中が。どんな時でも、どんな瞬間でも。
「…ハール…さん……」
感触が消えない自らの唇にそっと指で触れる。この瞬間が夢じゃないんだと、確認する為に。今触れた感触が、本物だと確認する為に。
「……大好き……です……」
消えて見えなくなったその背中に向かってそっとジルは呟いた。大切な想いをそっと。そっと、この地上へと零した。


爪先立ちの恋は気付けばその脚は地上に降ろし、少しずつ前に進んでいた。少しずつ距離が縮んでいた。貴方との、距離が……。



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