最期の場所



強い風が吹いて髪を揺らす。けれども構わずに歩みを進めた。強い足取りで一歩ずつ確実に前へと。微かに濡れた土の匂いを、確かめるように。
「――――空が蒼いな」
呟いた言葉通り見上げた空は鮮やかな色彩を放ち、注がれる太陽の光は目を細めずにはいられない程に輝いていた。まるでこの世界の未来を表現するかのように。
「…この蒼さ、あんたが…くれたもんだ……」
澄み切った空、柔らかい空気、暖かい日差し。少しずつ世界は変化し優しいものへと変わってゆく。それは決して目には見えないものだけれども、確かにあの瞬間人々の心に降り注いだ。降り注いで、そして。そして少しずつ人々の心の中に芽生えさせたもの。
「…あんたが…くれたものだ……」
目には見えなくても、瞳には映らなくても、それでも確かに。確かに『ここ』に在るもの。確かに存在しているもの。それはひどく優しく、そして切ないものだった。


――――アイク…少しでいい…私を覚えていてね…覚えていてください……


望めばどんな未来でも叶えられた。人の上に立つ事も、仲間とともにある事も。けれども無数にある選択肢よりも、もっと。もっと自分には叶えたい願いがあった。叶わない願いがあった。だからこうして独りになった。
「…ユンヌ……」
今まで心の奥底に閉じ込めてきたその名前をひとつ呟けば、きつく結ばれていた心の紐はいとも簡単に解かれる。きつく、結ばれていたその紐が。
「…ユンヌ…俺はやっと……」
伸ばされた小さな手のひらが、重なり合う事はなかった。最期の消えゆく瞬間の淋しそうな笑顔だけが、ずっと。ずっと瞼の裏に焼きついて消えない。だから消さなかった。どんなになっても消えない存在だと自覚した瞬間から、永遠に閉じ込めた。きつく結んで、一番綺麗な心の場所へと閉じ込めた。
「…やっと…言える気がする……」
自分の存在が消える事が分かっていながら、それでも護ったもの。護ろうとしたもの。それがこの世界で。それがこの地上で。だからこそ誓った。この手で、この世界を護ろうと。
「…言っても、いいよな……」
この世界が安定するのを見届ける時間は、自分にとってはあっという間だった。休む暇もなく追われる日々のお陰で、考える事すら放棄させてくれた。だからこそ進む事が出来た。前へと進む事が出来た。その先へと。
「…あんたに…逢いたいって……」
世界の安定を見届けて、そうしてやっと自分の『時間』が進み始めた時、迷うことなくこの足は旅立つ事を選んでいた。この世界の全てを見ようと、その手のひらが護ろうとした世界を…この目で全て見届けようと。
「…あんたに逢いたい…ユンヌ…あんたの声が聴きたい…あんたの……」
どんな小さな隙間も見逃したくなかった。どんな些細な場所でも見届けたかった。この世界の全てを、見たかった。


そのぬくもりを、知っている。その暖かさを、知っている。
『…アイク…好きよ…貴方が好き……』
柔らかい髪の感触も、指先に馴染む肌の感触も、その全てを。
『…大好き…アイク……』
ただ一夜の幻だとしても、確かにあの時重ね合った吐息は嘘じゃなかった。


――――俺も好きだ…その言葉を告げる前に塞がれた唇の感触が、幻だったらもっと。もっときっと、苦しくはなかった。


全てを見届けられたかどうかは分からない。けれどもこの身体が許す限り世界を回った。肉体が滅びるこの瞬間まで、大地への歩みを止めなかった。前へ前へと進み続けた。この地上に降り注ぐ優しいものを、暖かい光を。
「…あんたの…顔が…見たい……」
目には見えなくても、手に触れる事は出来なくても、確かに存在するものがこの世界にはある。あんたの破片が、見えない破片がこの世界中に散らばっている。それはこんなにも優しくて、こんなにも暖かくて。人々の心にそっと植えられた、柔らかいものだから。
「…ユン…ヌ……」
柔らかい緑の匂いがする。鼻腔をくすぐる草の匂いと、そして空から降り注ぐ暖かい光がこの身体を包み込んでゆく。そっと、包み込んでゆく……。


――――それが最期の場所で、最期の現実だった………




伸ばされた小さな手のひらに触れる。そっと触れるつもりだったのに、気付けば強く握りしめていた。その手を、強く。
「…アイク…やっと…やっと逢えたね……」
握りしめた手の先の笑顔はやっぱり何処か淋しげで、それがひどく苦しかったから微笑った。俺が微笑えば、あんたも微笑ってくれる気がしたから。
「…うん…嬉しいよ…ごめんね…私は…嬉しいの……」
いいんだ、俺は。俺はあんたが微笑ってくれれば。それだけで、いいんだ。あんたが微笑える世界こそが、俺も望んだものだから。そうやってあんたの瞳が微笑ってくれる世界こそが。
「…アイク…逢いたかった…アイク……」
握りしめていた手は何時しか背中に廻りきつく俺に抱きついてくる。その身体を抱きとめれば、もう後は愛しさしか込み上げてこなかった。愛以外のものが全て消え去った。何もかもが、あんた以外は。
「…アイク…好きよ…ずっと…待っていた……」
俺もだ、ユンヌ。あんただけが好きだ。ずっとあんただけが好きだった。可笑しいな、あんたに出逢う前は、俺はこんな風に人を好きになったことなんて一度もなかったのに。なのにどうしてだろう?なんでだろう?何でこんなにもあんたを好きになったんだろう?
「…ずっと…貴方だけを……」
触れる唇はもう。もう離れる事はない。結ばれた指先はもう解かれることはない。重ね合う吐息はやっと。やっとひとつになれる。

「――――俺もだ、ユンヌ…あんただけを…愛してる……」

もう唇で閉じ込められる事はない。哀しいキスで、言葉を塞がれる事はない。もう俺たちは、離れなくてもいいんだよな。もう二度と……。



強い風がひとつ髪を揺らした。その風に導かれるようにセネリオは頭上を見上げた。そこにある空は哀しい程に綺麗な蒼い色をしていた。
「…お疲れさまでした…アイク……」
空の蒼さを瞼の裏に焼き付けて瞼を閉じた。その色が何よりも彼にとって相応しいものだと思ったから。何よりも、相応しいものだと。
「…そして…おやすみなさい……」
ゆっくりと瞼を開きセネリオはそっと呟いた。誰にも聴こえる事のない言葉は、強い風に飛ばされて世界に散らばった。


―――――優しくて、そして哀しい、現実の世界へと……