――――その手のひらに導かれて私はここまで辿り着いた。もう二度と戻れない場所まで、辿り着いた。…戻りたいとは…思わなかった。
ふたりして笑いあおう。声が枯れるまで笑いあって、そして疲れきったら眠ろう。指を絡めて眠ろう。何もかもが、思考すらも消えるまで…眠りにつこう。未来すら瞼の裏に残さないほど身体を疲れさせて、そして眠ろう。全てを記憶から取り出して眠りにつこう。
そなたの命の音だけが世界の全てになれたのならば、私はもう何もいらないと思った。
伸ばされた指先に迷うことなく指を絡める。そうやって繋がった細く頼りないぬくもりが、ひどく愛しいものとなる。愛しくて、そして。そしてただひとつの私の『真実』になる。
「…これは、夢…じゃろうか?…」
呟く言葉に見つめる瞳がひどく優しくて…ううん優しすぎたから、私は理解した。これが夢ではなくて、そして夢なのだということを。これは現実だけれども、未来ではないのだということを。
「―――夢ですよ、サナキ様」
そうだ、これは夢だ。許されないから夢なのだ。世界からはみ出して、そして誰の目にも届かない場所になってやっと見ることの許される夢。やっと、叶った夢。
「ああ、夢じゃ。私が見る…とびきり幸福な夢じゃ……」
笑顔が優しくて哀しかった。哀しいから、笑ってみた。口元を懸命に笑みの形にしたら、そっとひとつキスをくれた。震えるまつ毛に当たる唇の感触が暖かったから、私は堪えることができた。瞼の裏に溢れた雫を、堪えることが出来た。
この先に在るものを理解できないほど子供だったら、私はただしあわせに包まれて眠るだけでよかった。けれども私は知っていた。二人の指先は決して結ばれることはないのだという事も。
「…好きじゃ…ゼルギウス…大好きじゃ……」
瞼を開けば笑顔でいられる自信はあった。例え瞳が潤もうとも、微笑える自信はあった。声を上げて泣きじゃくれる子供だったなら、きっとそなたは私にこんなキスをくれない。だから微笑おう。大人と子供の狭間の少女の顔で。
「私もですよ、サナキ様。貴女が誰よりも大切です」
子供ならば憧れで、大人ならば愛だった。けれども私は少女だからそなたに恋をする。そなたに恋を、する。
「大事なひとです。私にとって貴女は」
人でもなく女でもなく『ひと』としてそなたが私に注いでくれるものは、きっと私が望むものとは違うのだろう。けれどもそれでいい。その先は、ふたりは望んではいけないもの。その先に在るものは、決してふたりが手にしてはいけないもの。
「ゼルギウス…大好きじゃ……」
愛しているとは言わない。永遠に告げない。だから重ねられるのは指先だけ。触れられるのは唇だけ。けれどもそれでいい。それだけで、いい。それだけで、いいから。
拒まない唇に自らのそれを重ねる。恋をしてするキスはきっと。きっとこれが最初で最期だから。だから今は許してほしい。現実からはみ出したこの場所で、夢だと思い込んで。そして。そして重ねあう唇だけは、許してほしい。
――――恋は一度だけでいい。ただ一度だけでいい。そうすれば、私はこの先どんなことがあろうとも迷わないでいられるから。
その手に迷うことなく指を絡めて、そしてふたりで逃げてきた。逃げられないと分かっていても。どこにも行けないと分かっていても。それでも逃げてきた。これは夢なのだと心の中に言い聞かせながら。
「…そなたの命の音は…とても暖かいな…ゼルギウス……」
胸に耳を充てれば聴こえてくるのは優しい音だけで。その音に包まれて眠れる日々が永遠に続けばと願ってしまった私はまだ。まだ何処かで諦めることが出来ないのだろうか?
「―――それはこうしてサナキ様を抱きしめているからですよ。貴女の暖かい心を…抱きしめているからです……」
包み込む腕の優しさと、髪を撫でる指先の暖かさが、私だけの真実になった。私だけが知っている真実になった。他の誰も知らない私だけのものになったから。
「そなたの心も暖かい。暖かいのじゃゼルギウス」
微笑った。声を上げて微笑った。声が枯れるまで微笑いあった。どうせ夢ならばしあわせで楽しいほうがいい。暖かくて優しいほうがいい。
未来も現実もその先に在るものも全てが瞼の裏から消え去って、そなたの命の音だけが私の全てになったら眠ろう。そうして夢から…醒めよう。
―――――永遠の檻の中に、目醒めよう……
多分、気付いていた。子供でもなく大人でもなく少女だけが持っている、その不安定な心が無意識のうちに気付いていた。私が貴女の元から消えてゆくのだという事を。貴女自らが理解出来ない場所で、誰よりも貴女自らが理解していた。
『―――ゼルギウス』
その瞳に惹きこまれる。全てを見透かすようで、最期の場所だけをとりこぼした瞳で私を見上げて。
『そなたは、私の騎士じゃろう?』
その問いに答える前に差し出した指先に迷うことなく貴女は指を絡めてきた。そこから伝わるぬくもりと見上げてくる瞳の翳りが全ての答えだった。だから、ふたりで逃げた。逃げられないと悟ったから―――貴女と逃げだした。
「――――愛していますと告げても…貴女は答えないでしょう…けれども私はそんな貴女だからこそ…愛したのですよ…サナキ様……」
気持が結ばれていたと気付いた瞬間にこの恋は終わった。永遠の恋は永遠の想いとして昇華する以外の道はなかった。貴女の未来が何よりも綺麗で、私の未来がどこにもなかったから。だから、終わらせるしかなかった。それでも。
「…愛していますよ…サナキ様…それだけは本当のことなのです……」
貴女は誰よりも分かっていた。ふたりに未来など何処にもないことを。そして私は嫌になるほどに分かっていた。貴女の未来を、全てを、奪う事が出来ないのだという事を。
恋には終わりがある。けれども愛には終わりはない。
貴女の生はこれからも進み続けるけれど、私の生はもうすぐ終わりを告げる。
貴女の恋は終わらせることはできるけれど、私の愛は終わらせることはできない。
――――けれども私には未来はない。どこにも…ない……。
もうすぐ夜が明ける。現実の時間が押し寄せてくる。目覚めた瞬間に貴女の瞳に映る私は貴女を愛した哀れな男ではなく、貴女を裏切るただの愚かな男だ。無駄な嘘を積み重ね、そして貴女のもとを去りゆく男だ。それでも貴女は微笑うのだろう。大人でも子供でもない少女の笑みで…誰よりも艶やかに、誰よりも透明で、そして誰よりも不安定な笑みで。
――――大人と子供の狭間で、誰よりも綺麗なその瞳で……