――― 一緒にいよう。ずっと、一緒にいよう。どんな時でも、どんな瞬間でも。
もう二度と離したくないから。このぬくもりを離したくないから。
暖かな手のひら。命あるものの、ぬくもり。ただひとつの、真実。
――――もう二度と手に入らないと思っていた。もう二度と自分には与えられないと思っていた。
君が微笑う。不器用に、ぎこちなく。
少しだけ戸惑って、そして。
そして、一生懸命に、微笑うから。
だから、俺は。俺はずっと見ていた。君の懸命な笑顔を、どうしようもなく愛しい想いで見ていた。
目覚めた瞬間に、何かが消えていった。それは瞼の奥にそっと。そっと残っていたものなのに。目覚めた瞬間、まるで儚い花びらのように、溶けて消えていった。
「―――目が覚めたのか?」
頭上から降ってきた不器用な声と、見降ろしてくる強い紫色の瞳に、拡散していた意識が引き戻される。ぼんやりと漂っていたものが不意に消えて、眩しいほどの光の雨が降ってくる。眩しい、光が。
「…レテ…俺は…ああそうか…これは君が……」
その光に目を細めた瞬間、背中に強い痛みが走る。その痛みのお陰で完全に意識が覚醒し、自分が置かれている状況を思い出す。
きつく巻かれた布と、鋭い背中の痛み。血は拭われてはいたが、まだ鼻腔に生臭い匂いが残っている。
「…怪我した仲間を放っておくことは出来んからな……」
照れ隠しのためかわざとぶっきらぼうに言うと、そのままそっぽを向いてしまう。けれどもその首筋がほんのり紅く染まっているのが見えて、ツイハークは気付かれないようにひとつ微笑った。
――――こんなところは、正反対だな…と思いながら。
激化する戦い中で、神経がきりきりする毎日の中で、見つけたものがあった。むせかえる血の匂いと、耳鳴りすら覚える鉄がぶつかり合う音の中で。その中でひとつ、見つけたものがあった。
幼い女の子が泣いていた。声を上げて泣いていた。
『…どうした?…』
そんな子供に戸惑いながらも近づく彼女に、子供は答える―――ママとはぐれたの、と。
『―――そうか、なら一緒に探してやるから…泣くな』
彼女の言葉に恐る恐る頷く子供。傍から見ても怯えている様子が手に取るように分かる。そんな子供に彼女は微笑った。ぎこちなく、微笑った。安心させようと、慣れない笑顔を一生懸命に作っていた。
―――君が、一生懸命に、微笑うから。
ずっと、見ていた。君の笑顔を見ていた。愛しいと思った。たまらなく、愛しいと。それに気付いた時、胸の奥から湧き上がってくる思いを、止められなかった。
あの日以来、夢の途中で目覚めることがなくなった。目覚めた瞬間に何時も在った筈のものが、そっと消えていった。切なくて、苦しくて、けれどもかけがえのない大事なものが。
「―――ありがとう、レテ」
そこにはぽっかりと空洞が空いている。それを埋めることは出来ないだろう。どんな感情が新たに生まれ、どんな想いが新たに育まれようとも。それはもう自分自身の『一部』として形成されてしまったのだから。
けれども、その空洞とは別の場所に生まれた新たな想いが、今。今確実に自分の中に降って来る。それを。それを止めることは、もう出来なかった。
「…目の前で死なれては…困るからな……」
素直になれないのは性分だろう。それでいいと思う。それが彼女の存在を形成しているモノならば。それすらも愛しいと、そう思ったから。
「そうだね、俺は君を困らせることはしたくないよ」
痛みをこらえて立ち上がれば、その物音に彼女が振り返る。見上げてくる瞳の色が微妙に変化しているのが分かった。さっきまでの強い色とは違う、何処か不安げな瞳だった。
「いきなり立つなっ!そんな状態でっ!」
怒鳴られて、気がついた。その怒っているような表情は、心配しているからなのだと。何時も戦場で見せるその顔は、仲間を心配しているからなのだと。
「ごめん、でも今は」
止められなかった。止めることが出来なかった。溢れる想いを。溢れて、そして手のひらから零れていく想いを。どうにもならない想いを。だから。だから、どうにも出来なくて、その身体を…抱きしめた……。
君が、微笑ったから。あの時君が微笑ったから。
不器用だけど、一生懸命に、君が。君が微笑むから。
―――俺はずっと。ずっと、君を見ていたいとそう思ったんだ。
「…ツイ…ハーク…何をっ……」
びくんっと身体が腕の中で竦むのが分かる。けれども腕を解くことは出来なかった。このぬくもりを、感じてしまったら。その体温を、感じてしまったら。
「…今は、俺は…君を抱きしめたいんだ……」
「…バカ…何言って……」
もう離す事が出来ない。もう二度と離したくない。失いたくない、このぬくもりを。この暖かさを。この腕の中にある命を。
「―――君が好きだよ、レテ」
「……!!」
「…好き、なんだ……」
小さな命。この腕の中にあるただひとつの命。護りたいもの。大事に、大事に、護りたいもの。このただひとつの、命を。
油断していたのか、心に隙が出来たのか、それとも。それとも…安堵していたのか。こいつと一緒にいる事で、心のどこかに安心していた部分があった。
――――お前と一緒なら、大丈夫だと。
どんな時でもどんな瞬間でも、お前とともにいれば大丈夫なんだと。だからこそ。だからこそ、お前が私をかばって背中を切られた時に。
――――初めて、怖いと思った。お前という存在を失うかもしれないという恐怖を、初めて知った。
本当は、気づいていたんだ。初めて出逢ったあの時から。
「…ツイハーク……」
「…その言葉は…本当か?……」
君を護ると言われたあの瞬間から。心のどこかで安心していたことを。
「…本当だ、レテ……」
私はお前に護られているんだと、絶対の安心感を得ていたことを。
―――その言葉がどんなに。どんなに、私を支えていたのかを。
「…もう二度と言わないと思っていた言葉だ。だけど君を前にしたら言わずにはいられなかったんだ」
そっと背中に腕が廻される。傷口を労わるように、そっと。
「…私も、だ……」
体温が、触れあっている。ぬくもりが、重なり合っている。
「…レテ……」
それだけで。それだけで、何もかもが。
「…私も…お前が……」
レテの言葉はツイハークの唇に奪われた。そっと、優しく、奪われた。
唇を離して、ゆっくりとその顔を見つめる。微かに潤んだ紫色の瞳は柔らかい光を湛えていた。そして。そして、そっと微笑う。
――――不器用な彼女が、精一杯に、微笑む。
一緒にいよう。ずっと、一緒にいよう。
どんな時でも、どんな瞬間でも。
君の怒った顔も、泣いた顔も、微笑った顔も。
全部、全部、見ていきたいから。だから。
だから、一緒にいよう。ずっと。ずっと、ずっと。
胸の奥の空洞も、君への溢れる想いも、全部。全部、俺のものだから。俺自身を形成するものだから。その全てを受け入れて、そして。
そして、君を想ってゆく。君だけを、見てゆく。