叫び



――――本当は声を上げて、叫びたかった。いくな、と…そう心から。


輪郭がおぼろげになって、そして消えてゆく。静かに優しく消えてゆく。それを俺はどうする事も出来ずにただ。ただあんたが『好き』だと言った笑顔を向けるだけだった。それしか出来なかった。



さようならは、笑顔でいよう。最期の記憶が涙で溢れたら、きっと。きっと、淋しくて後悔だけが残ってしまうから。


触れた指先のぬくもりが消えないようにと願いながらそっと重ねた夜。全てのものを失ってもいいと本気で思って身体を重ねた夜。ただ一度だけの『本当の事』だけで大丈夫だと思った私が愚かなの?ただ一度だけでいいからと願った私が馬鹿だったの?それでもどうしても諦めきれなくて貴方を求めた私の―――――これは消える事のない罪なの?
「…アイク…好き…大好き…」
子供のように無邪気な笑顔で告げる言葉の裏にあるのは醜い程の激しい想い。剥き出しの痛みすら伴うただひとつの想い。私のただひとつの自分だけの感情。
「―――ユンヌ…俺もだ…自分でもどうしていいのか分からないくらい…あんたが好きだ」
その言葉が真実であればあるほど、嬉しくて苦しい。私は貴方の中に愛として優しく残れればいいと願いながら、その一方で思ってしまう。傷になるほど深く、貴方の奥に突き刺されればと。深く、心を抉るくらいに。
「…あんたが…好きだ……」
最初で最期だからと壊れるまで抱き合った。互いの肌の知らない場所など何処にもなくなるくらいに触れて、吐息も喘ぎも奪い合って、唇も身体も全てを繋ぎ合せた。きつく結んで離れないようにと。
「…ありがとう、アイク…ありがとう……」
笑顔でいよう。泣けない瞳で泣きながら笑顔でいよう。それしか出来ない。そうする事しか、出来ない。それでも。それ、でも。
「…愛しているわ…アイク……」
貴方の心に私という存在を埋めてゆく。消えない場所へと埋めてゆく。それは罪。私自身が自分の為だけに犯した最初で最後の罪。消えゆく私が貴方から消えたくないと願って押し付けたエゴという名の罪。



髪に、触れた。指に、触れた。唇に触れて、そして肌を弄った。この手で生み出した焼けるほどの熱と、尽きる事のない欲望と愛。
けれどもそれは、儚いほど一瞬で終わってしまう。瞬きするほどの瞬間で。こんなにも、こんなにも、互いが求めあって。こんなにも、こんなにも、互いに愛し合って。
―――――けれども、終わる。この目の前の永遠は、ほんの一瞬でしかない。


哀しいほど綺麗な瞳で俺を見上げてくる、少女のような女神。こんな子供のような身体なのに俺は欲情した。欲しいと思った。全てが欲しいと、そう思った。
「…アイク……」
俺を呼ぶその声が、肌に触れると震えるまつ毛が。夜に濡れた双眸が、唇から零れる甘い悲鳴が。その全ては俺だけが手に入れたのに、俺だけのものじゃない。決して俺だけのものには、ならない。
「もっと名前を呼んでくれ。あんたの声で、聴きたい」
「うん、アイク。アイクがそうして欲しいなら幾らでも呼ぶよ。貴方の名前、いっぱい、いっぱい呼ぶよ」
「俺だけの名前を呼んでくれ」
「うん、アイク。大好きなアイク。私のアイク。私の一番大切なアイク。私の一番……」
重ね合う唇に閉じ込められた名前。それだけだった。本当に俺だけが手に入れたものは、今。今この瞬間に唇の中に閉じ込めた、あんたが呼んでくれるただひとつの俺の名前だけだった。



――――本当は叫びたかった。声を上げて叫びたかった。行くなと。何処にも行くなと。あんたは俺だけのものだと。


消えゆく笑顔が淋しいのを知っているのは俺だけで。その意味もふたりの罪も後悔も懺悔も、その全てを知っているのは俺だけで。それでもふたりして微笑いあう。優しく暖かい世界の始まりに、ただ泣き顔で微笑うことしか出来なくて。
『…ん……ね………』
静かに消えゆくその笑顔が、おぼろげになってゆくその輪郭が。伸ばした指先にはどこにもなかったぬくもりが。今最期の瞬間にそっと降りてくる。あり得る筈のない透明な雫がひとつこの指先に。
「…ユン…ヌ……」
あんたの最期の言葉を聴いたのは俺だけで。その真実の意味を知っているのも俺だけで。そしてこの指先にそっと落ちた涙の粒を感じているのも…俺だけで。
「…お兄ちゃん?……」
「すまん、ミスト。すぐ戻る」
全てが終わって光が世界に戻って、ぬくもりが全てヒトの手のひらに還ってきた。穏やかな日差しと青い空と、そして萌える緑がこの地上に溢れてゆく。ただひとつのものと引き換えに。ただひとつの恋と、引き換えに。


『…ごめんね…アイク…ごめん…ね……』


何が正しくて何が間違っているのか。そんな事は俺たちには分からなかった。ただ互いを好きだと、どうしようもないくらいに好きだと思っただけだ。ただ好きになっただけだ。
終わりしかない事も分かっていた。結ばれることすら叶わないと分かっていた。それでも結ばれた。身体を重ねて心を結びあった。それが許されないとか罪だとかそういったものは、もうどうでもよかった。ただ好きだった。ただ欲しかった。ただ愛し合った。それだけだ。それだけだった。
「…ユンヌ……」
終わりしかなかった。未来なんてなかった。先なんて何処にもなかった。それでも良かった。それでも構わなかった。
「…ユンヌ…俺は……」
世界と引き換えにして互いを選ぶ事は出来なかった。そんな事お互いに望みはしなかった。けれども。けれども。
「…俺は…あんたを…俺は……」
けれども、失いたくなかった。離れたくなかった。一度だけでいいと思ったはずなのに…違うそう思い込んで閉じ込めただけだ。本当の気持ちを閉じ込めただけだ。
「…行くな…と…行くなと―――――っ!!」
こうなる事なんて初めから嫌という程分かっていたのに。理解していた筈なのに、それなのに思考は感情に飲み込まれてゆく。許されないとか正しくないとかそんな事すらもう届かない場所で、ただ心から叫んでいる―――――行くな、と。
「行くなっ!行くなユンヌ…俺はまだあんたに何もしてない…何も出来ていないっ!!」
離さない。離さない、離さない。あの時ただそれだけを強く願った。叶わない願いを願った。身体を繋いで、離さないと…何度も何度も。
「…俺は…俺はっ…!!」
皆の手で掴み取った平和。その為だけに前に進んだ。迷いは何処にもなかった。後悔も何処にもない。けれどもただ一人の剥き出しになった『俺自身』はこんなにもちっぽけで、こんなにも弱くて、こんなにもエゴだらけだった。
「…行くな…ユンヌ…行くなぁっ…!!……」
こんなにも愚かでこんなにもどうしようもなくて、こんなにも…こんなにも俺はあんたを愛していた……。


――――こんなにもあんたを、愛している。愛している、愛している。


あんたが作った俺の傷口が見えない血を噴き出して、世界の片隅に少しだけ染みを作った。決して消える事のない小さな染みを、作った。