朱い鳥



硝子細工のような瞳に映る自分の姿を思い出したように見つめれば、そこにあるのはひどく不器用な一人の男の姿があった。不器用でちっぽけで何もないただ独りの男がいた。
「――――そなたの瞳に私だけが映っている…しあわせじゃ……」
無邪気な笑顔で告げる言葉とは裏腹に瞳の奥に在るのは焼けるほどの熱い炎の色で。それに触れたら皮膚の奥まで焼け焦げてしまいそうなほどの―――熱情で。
「…サナキ様……」
白い陶器のような指先がそっと頬に触れる。それは瞳の熱さとは正反対の何処かひんやりとした手だった。だから、そっと。そっと暖めたいと思った。
「他の何も映してはいない…しあわせじゃ……」
けれどもそんなもどかしい熱はこの目の前の相手は願ってはないない。そんなもどかしさよりももっと。もっと激しく熱いものを、願っている。けれども。
「…しあわせじゃ……」
けれども、それに答える事は出来ない。永遠に触れる事は出来ない。それが私の贖罪。それが私の鎖。それが私の枷。
頬を撫でる指先にそっとぬくもりが灯される。それはきっと。きっと、貴女が私に触れているせいだ。貴女だけが私の冷たい身体にぬくもりと熱を与える。貴女だけ、が。


――――愛だけで生きられたならば、しあわせ。何も持っていなかったら、しあわせ。なにもなくて、ただ。ただこの想いだけで全てを埋められたならば…しあわせ。


全てを捨ててこの手を取れば、私は満たされる。貴女は女としての幸せを手に入れられる。けれども、他の全てを失う。私がここまで生きてきた意味を、選んできた道を。そして貴女が必死になって進んできた道を。選び取った未来を。
「―――私を抱けとは言わぬ。そうすれば…私達はもっと…もっと苦しくなる……」
皇帝になる事、大人になる事。感情よりも理性を優先する事。どうにもならない事を、頭で理解する事。どうしようもない事を…諦める事。
「…けれども今だけは…今だけはこうしていてくれ…私にそなたを触れさせてくれ……」
幼い子供の貴女はもう何処にもいない。ただ想いのままにそれをぶつける貴女はもう何処にもいない。それが私は嬉しくもあり、淋しくもある。子供でなくなった貴女は、全てを理解し諦めを覚えた。強く握り締めていた手をそっと解いて、もどかしく触れるしかしなくなった。こんな風に、そっと。そっと触れる事でしか出来なくなった。
「――――はい、サナキ様。貴女の望むままに。私は貴女の騎士なのですから…」
そしてそれをただこうして享受する事しか私は出来ない。貴女を選べない私にはもうこれしか出来なかった。


―――――大切なものが一つだけならば、迷う事などなかった。けれども私は貴女に出逢ってしまった。無邪気な純粋な貴女の笑顔を、真正面から見つめてしまったから。


精一杯背伸びをして大きな瞳が懸命に私を捉えようとする。あまりにも一生懸命だったから、その瞳を逸らす事が出来なかった。
『おぬしが、ゼルギウスか?』
そして捉われた。硝子細工のような綺麗で透明なその瞳に、捉われた。目を逸らす事も出来ずに、ただ。ただ、その瞳に映るちっぽけな自分の姿を呆けたように見返すだけで。
『ゼルギウス、私がサナキじゃ。この国の使徒じゃ』
無邪気な笑顔だった。子供の笑顔だった。けれどもその瞳は王者の瞳だった。上に立つ者の、揺るぎない瞳だった。けれども、何処か。何処か、ひどく淋しげだった。


指先が頬から顎のラインへと滑ってゆく。そのまま唇をなぞり、鼻筋を辿った。額に触れて、前髪を掻き上げもう一度瞳を重ねる。もう逸らす事は許されない。逸らす事なんて出来ない。真っ直ぐに捉える硝子細工の瞳はただ静かに自分を映しだすだけだった。
「指先に刻んでおこう。そなたの形を、そなたの体温を、そなたの…感触を…どんなになっても忘れないように……」
口許に笑みの形を作り、見上げてくる瞳は翳ってゆく。笑いながら涙を溢さずに泣く貴女が愛しくて切ない。けれどもそれこそが私達が決めた選択肢だから。私達が選んだ未来だから。
「忘れてください、サナキ様。その分私が忘れませんから…だから貴女は忘れてください」
「ふふ、そなたは意地悪じゃ。そんな無理難題を私に押し付けるなんて。意地悪じゃ」
声を上げて笑う。哀しい笑顔で笑う。それがどんなに綺麗なものか、どんなに切ないものか、知っているのは私だけ。世界中で私だけだ。その事実だけでもう充分だ。
「それでも忘れてください。私が願うのはただひとつ。貴女の幸せ…それだけなのですから」
指先が髪に触れる。そっと撫でて、そのまま指先に髪を絡めてきた。その動作は幼い子供のものじゃない。艶めかしい少女の指の動きだった。
「それでも忘れられないと言ったら?」
「ならば忘れないでください。貴女が他の誰かを愛した瞬間、この哀れな男の顔を思い出してください」
「―――分かった、そうしよう。他の誰かに抱かれながら…私はそなたの面影を追おう……」
指先が一瞬、離れる。その動きを無意識に瞳が追ったら…それを許さないとでも言うように、唇が塞がれた。



もしも、私が。私が皇帝でなかったならば。ただの何もない少女だったならば、その手を取る事が出来たのだろうか?この手を取り、そなたを手に入れる事が出来たのだろうか?

―――ううん、きっと。きっと私はそなたを手に入れる事は出来ない……

見えない壁がある。二人の間には全てを見せる事の出来ない壁がある。剥き出しになったふたりを拒む透明な硝子が。だってふたりは少しだけ、ほんの少しだけ嘘を付いているから。
愛だけに生きたかった。愛するという気持ちだけで生きたかった。けれどもそれだけがどうしても出来ない事だった。
そなたと私の間に在るものが一体何なのか、それは分からないけれども。分からなくても、見えてしまうものがあったから。見えてしまうものがあるから。

――――一番奥深いそなたの心の闇を、私はどうしても触れる事が出来ない。

そなたが好きで、そなたを愛して。気持ちは繋がって、心は結ばれて、けれども一番奥に在る闇に私は触れられない。そなたは触れさせない。それがそなたの優しさで、そなたの愛し方だった。だからこそ私はその場所まで辿り着けなかった。
何が間違っているのか何が正しいのか、それすらも分からない。分かっているのは、私はそなたを愛しているという事だけ。そなたが私を愛しているということだけ。けれども決して結ばれる事は許されない。ただそれだけの事だった。


触れて、離れる唇。離れて、触れる睫毛。その残像だけが、今ここに漂っている。そっと揺れている。
「…好きじゃ…ゼルギウス…そなただけが…好きじゃ……」
「私もです、サナキ様。私も貴女だけが好きです」
恋人同士の幸せな言葉の雨を二人の間に降らせながら、訪れる終わりの時を静かに目を閉じて待つ。その矛盾した行為こそがふたりの愛だった。何処かいびつで歪んでいて、けれども哀しいくらいに透明な愛の形だった。