花の指環





――――ただひとつの笑顔が、そっと静かに歪んでゆく。この瞬間をただ。ただ見つめる事しか出来なかった。


重ね合った手のひらはとても小さくて、きつく握り締めたら壊れてしまう程だった。それでも結んだ。きつく、結ぶ。
「―――アイクの手は…大きいね」
無邪気な子供のような笑顔が今ここに在って。ただひとつの笑顔が目の前に在って。これが夢だと思えたならば良かった。ただの夢ならば、繋がっている指先のぬくもりすらも錯覚でしかなかったから。けれども。
「あんたの手は、小さいな。子供みたいだ」
けれどもこれは夢なんかじゃない。確かにこの指先にはぬくもりがあって、体温が繋がっている。触れ合って重ね合った指先には。
「ふふ、がっかりした?」
「いやあんたに今こうして触れている…その事の方が大事だ」
「…アイク…ありがとう」
唇が綻び笑顔になる。それはさっき見せた子供のような笑みとは違う。もっと穏やかで、そしてもっと淋しい笑顔だった。だから。
「こうしてあんたに、触れている方が」
だから、抱きしめた。きつく抱きしめた。淋しすらすら入り込める隙間がなくなるくらいに、きつく。きつくその身体を抱きしめた。



ねぇどうして。どうしてひとは抱き合うのかな?どうして身体を重ね合うのかな?私達はそんな事をしなくてもちゃんと繋がる事が出来るのに。心を結びあう事が出来るのに。それなのにどうして。どうしてこうして、肌を重ねるのかな?


――――その意味が今、分かった気がする……貴方に触れて、分かった気がする……


重ね合う唇の熱さと、混じり合う吐息の激しさが全てを溶かしてゆく。何もかもを溶かして、混じり合わせたら淋しさは何処にもなくなるのかな?
「…ふぅ…はっ…ぁぁ………」
目を閉じなかった。キスは目を閉じるものだという事は知っていたけれど、今は閉じたくなかった。見たかったから、全部見たかったから。貴方の全てを見たかったから。
「…アイ…ク……」
唇が離れても一筋の唾液の糸が二人を結んだ。それすらもざらついた舌が舐め取りもう一度唇を塞がれた。その顔を、その瞳を、ずっと見ていた。誰にも見せた事のないその熱い瞳を、ずっと。
「…んんんっ…んんっ……」
背中に腕を廻し、きつくしがみ付いた。そうする事で剥き出しになった互いの皮膚が重なり、生み出す熱が混じり合った。混じり合って溶けあった。
「―――ユンヌ…あんたの命の音がする」
「…アイク……」
「これがあんたの音なんだな」
微かに膨らんだ胸に手が重なった。それだけでじんっと身体の芯が疼いた。けれどもその手は淫らな動きにはならず、命の鼓動を手のひらで拾うだけだった。
「…うん…私の音よ…アイクだけが知っている……」
広がる熱よりも眩暈がした。優しく触れる手に溺れた。そっと手が離れて耳が胸の上に重なる。まるで幼子が母の胸に抱かれるように。だから撫でた。そっとその髪を、撫でた。
「…ユンヌ……好きだ……」
「…うん、知っている…だって……」
ごわごわの髪だった。けれどもそれは戦いに明け暮れる日々の証だった。そんな髪が何よりも愛しい。何よりも大事で、何よりも…愛していると思った。
「…だって…その気持ちを私に教えてくれたのはアイクだもの……」
「―――好きだ、ユンヌ…愛している……」
「…私も…愛している……」
言葉がどれだけこの気持ちの意味を伝えてくれるのかは分からない。けれども今は告げたいと思った。告げなければいけないと思った。声にして、言葉にして伝えなければいけないと。
「…愛しているわ…アイク……」
顔を上げて見つめてくる瞳に映る自分は、女神でもヒトでもなくてただの…ただの恋する少女だった。


傷だらけの背中にしがみ付いた。その手がまた細かい傷を作ってゆく。その傷が消えなければいいと、そんな事を思いながら。叶わないのは分かっていても、それでも。


貫かれる痛みよりも、結ばれた喜びが勝ったから声を上げた。感じるままに声を上げた。
「あああっ!ああああっ!!」
引き裂かれるような痛みよりも、擦れ合う媚肉から生み出す快感が身体中を駆け巡った。狭い器官を押し広げ挿ってくる肉棒の硬さと熱さと巨きさに溺れた。
「…あぁぁっ…ああんっ…アイク…っ…アイ…ク…あぁぁ……」
ぐちゅぐちゅと接合部分から濡れた音がする。そこから生み出す熱が全身を駆け巡り、身体の芯を痺れさせた。痺れて溺れて、狂わされて。眩暈がするほどの快楽に身を任せ。そしてそのまま貴方の腕の中に溺れてゆく。
「…ユンヌ…ユンヌ……」
声が降ってくる。貴方の声が私を埋めてゆく。身体を埋めて、心を埋めて、意識すらも埋めて。そして辿り着く場所は貴方の腕の中で。ただひとつの場所で。
「…アイクっ…もっと…もっとぉっ…ああんっ!!」
乱れた髪から飛び散る汗が、目尻から零れる快楽の涙が、繋がった個所から滴る蜜が、その全てが私を溺れさせてゆく。息が出来なくなるほどに、溺れてゆく。
「――――!!!ああああっ!!!」
そして溶けてゆく。ぐちゃぐちゃに溶けてゆく。皮膚も熱も全部溶けて、そして。そしてひとつになる……。



「…これは…夢なの…全部…私がまどろみの中で見た…夢なの……」



そう言って微笑う笑顔がそっと静かに歪んでゆく。それを止める事は俺には出来ない。声を出そうとしたら、そっと。そっと唇が塞がれた。
「―――目を醒ましたらこの事は、全部貴方は忘れているの。だから、言うわ。好きよ、アイク。貴方を愛している。貴方だけを…愛している……」
目を開こうとしても瞼は開かない。俺もだ…そう告げたくても声にならない。もう一度その身体を抱きしめようとしても、腕が動かない。告げたいのに。伝えたいのに。俺もだ、俺もだと。
「…愛しているわ…アイク……」
何でそんなに。そんなに哀しそうな顔で微笑うんだ。あんたにそんな顔をさせたくないのに。俺はあんたに微笑っていて欲しいのに。それなのにどうして。どうして、俺はあんたにそんな顔をさせてしまうんだ?俺はただ。ただあんたに微笑っていて欲しいだけだ。あんたが好きなだけだ。ただそれだけなんだ。それなのに……
意識が溶けてゆく。そっと静かに溶かされてゆく。歪んで綻んで、そして。そして堕ちてゆく。それを止める事は…止める事は…できな…い……



穏やかに眠るその顔を見下ろしながらユンヌは意識のない恋人の唇にひとつキスをした。その唇はまだ。まだ熱を帯びた熱い唇で。激しく抱き合った時のままの、唇で。
「―――愛しているわ、アイク……」
だから微笑う事が出来た。しあわせな笑顔で、その顔を見つめる事が出来た。恋する少女の顔で、微笑む事が出来た。


次に貴方が目覚めた時は、私はまた気まぐれで我が儘な女神の顔になるのだろう。私が消えゆくその日まで。けれども心の何処かで願う、貴方が気付いてくれる事を。そして心の底から祈る――――永遠に貴方は気付かないで…と。


それはどちらも自分にとっての真実だった。混沌の女神の、ただひとりの女の、真実だった。