この瞳に映る世界は綺麗で。ずっと、綺麗で。だから微笑えると思った。そっと微笑む事が出来ると思った。
――――指先で触れたぬくもりが、世界の全てで。そして世界の終りだった。
全てが終わった時に私はどんな顔をしているのだろうか?そんな事を考えながら過ごした日々を思い浮かべ、それが案外何気ない日常に組み込まれていた事に苦笑した。そう、何でもない日々の中で何時も心の何処かで思い浮かべていた事。繰り返し心に描いて練習をしていた事が、今。今この瞬間に訪れた…それだけの事だった。
「―――案外大丈夫だったなんて言ったら…貴方はがっかりする?」
零れた言葉と声は普段とは何一つ変わらない。言葉を紡ぐ唇は笑みの形を作っている。そうだ、ちゃんと。ちゃんと自分は出来ている。笑えて、いる。
「嘘、そんな事貴方は言わないよね。流石だなって、笑ってくれるよね」
呆れるほどの笑顔で包まれた日々。独りになっても淋しくないようにいっぱい。いっぱい笑って過ごしていこうと、ふたりで決めて歩いてきた日々。隙間なんて何処にもないように笑顔でいようと、笑い声で埋めようと、そうやってふたりで生きてきた。せいいっぱい生きてきた。だから。
「――――笑って、くれるよね。何時もの笑顔で……」
だから淋しくなんてない。抱えきれないほどたくさんの暖かいものが、この手のひらにあるから。溢れるほどにあるから。
大きな手のひらが、大好きで。ずっと、大好きで。
『大体、お前が全部悪いんだ』
子供みたいな笑顔と、部屋中に響き渡る笑い声が。
『…こんなに綺麗になったお前が…悪いんだ』
陽だまりの中心にいる貴方の声が、瞳が、笑顔が、全て。
『―――俺が…ほっとけねーだろ…』
好き。大好き。本当にずっと。ずっと、大好きだよ。
――――私は知らないの。貴方以外に恋をした事ないから。だからこの恋しか、知らないの。
生まれて初めての恋が、最期の恋だった。それがどんなにしあわせな事なのか、私は知っている。だって世界はこんなにも綺麗だから。私の瞳に映るもの全てが、とても綺麗だから。
「トパックがいたからだよ。一緒に見てきたからだよ。だから」
ただ一度だけの恋が、何よりも暖かくて明るくて優しいものだったから。だから迷う事なく言える、私は何よりも幸福な娘だったのだと。生まれてきた意味も、この存在も命もありがとうと、そう告げられると。
「…だから、こんなにも…綺麗なんだよ……」
大切な人が皆先にこの世界から旅立ってしまう事も、自分だけが年を取らずに生き続ける事も、こうしてたくさんの別れを受け止める事しか出来ない事も。それでも、全ての出逢いに意味はあった。全ての別れに意味はあった。そして自分が生きている事に意味はある。この命に、この存在に。
「――――ありがとうね、トパック…貴方がいてくれたから私は独りじゃない」
溢れるほどの想い出と、抱えきれない程の眩しい日々が、この手の中に胸の中に在るから。だから淋しくない、だから独りじゃない。目を閉じればぼやける事すら出来ないほど、鮮やかに浮かぶ日々がここに在る限り。
「…ありがとう……」
好きという想いだけで生きてゆける日々をくれたのは貴方だった。この暖かく優しい想いだけで過ごしてゆく事が出来たのは貴方がいたからだ。それはもう。もうどんなものにも代えられない。代える事が出来ない大切なもの。
何で俺のが先に死んじまうんだろうな。お陰で余計な心配しなきゃいけねー。…だってさ、お前…綺麗じゃんか…だから俺の目の届かない所で他の男が…って、何だよ…そんな事言うなよ……その…すげー…嬉しいじゃんか…俺…そんな事言われたら……
「うん。何度でも言うよ。私は、トパック以外は眼中にないよ。好きなのは、貴方だけだよ。ずっと、ずっとね」
生まれて初めての恋が、最期の恋だった。初めて好きになった人が、最期に愛した人だった。私は知らない。貴方以外に恋する事を知らない。知らなくていいの。だって貴方以上に私を幸せにしてくれる人はいないから。だから私は貴方以外の恋を知らなくていいの。
「―――大好き、トパック」
呆れるほど告げてきた言葉だった。それでも飽きることなく告げるのは、変わる事のない想いだから。変わる事が出来ない想いだから。だから何度でも、何度でも、告げる。貴方が好きだと、貴方が大好きなのだと。
この綺麗な世界を私に与えてくれた人。自分の存在を嘆くよりも喜びを与えてくれた人。生きる事の意味を、楽しさを教えてくれた人。命の意味を、愛する事の意味を、教えてくれた人。―――ありがとう。ありがとう、ありがとう。
そっと頭上から水滴が零れて地上を濡らしてゆく。それは何処か歌声のようで。雨がそっと歌っているようで。
「うん、もう少し。もう少し頑張るね。私の世界はまだ終わってはいないから」
冷たくなった指先は世界の始まりで、そして終わりだったけれど。それでもまだ私の命の鼓動が刻み続ける限り、見てゆこう。貴方がくれた綺麗な世界を、貴方が大好きなこの世界を。貴方の存在をこの胸に溢れさせながら、私は。私は見てゆこう。この優しい大地を。
――――優しい雨が、生命の詩を歌う。そっと、歌う。ぽたり、ぽたり、と。
笑おう、笑顔でいよう。溢れる愛を胸に、ずっと微笑っていよう。それが、貴方が私にくれたもの。私に与えてくれたもの。平凡だけど笑顔の絶えない日々。穏やかで静かで、そして暖かい日々。その全てにありがとうと、言える限り。
「大好き、トパック。だから待っていてね。何時か私が貴方のそばに逝くその日まで…おせーぞって、呆れながら…でも笑顔で…待っていてね」