ゆびきりを、したね。一度だけ。一度だけ、ゆびきりをして約束をした。それ以外の約束が出来なかったから、だからたった一度だけ。
――――最初で、最期の、約束をした。それだけしか、私には出来なかったの。
何もなければ良かった。何も持っていなければよかった。私がただの『女』で。それ以外のものは何一つ持っていなければよかった。何もなければ、良かった。
「…ずっと一緒にいようとは、約束しないんだな」
そんな約束したら、嘘になってしまうから。だから、ずっとなんて言わない。ずっとなんて約束しない。貴方との約束だけは、真実でありたいから。嘘で固めた私ではなく、本当の私でありたいから。
「…そんな我が儘、言えない…だってもう…こんなにも指の形が違う」
昔は小枝のような指先だった。冷たくて、ひんやりしていて。私が必死に、暖めていた手。凍えないようにと、ずっと。ずっと暖めていた手。でも今は。今はこうして私の手を包み込んでしまう。すっぽりと、包み込んでしまう。
季節が変わるたびにこうやって少しずつ指の形が変わっていって、変わらない私とは違う生き物へと変化してゆく。それが嬉しくもあり、それがとても哀しい。
「気持ちは変わらないのに?俺はずっとミカヤだけの為に生きている」
そうね、この翠色の瞳だけは変わらなかった。ずっと、変わらない。初めて出逢った日から、ずっと。ずっと、真っ直ぐに私だけを見ていてくれた瞳。けれども、それが。
「ありがとう、サザ。私はその言葉だけで充分よ。もうそれだけで」
それが、私を苦しめるのよ。貴方は迷うことなく私を見てくれる。けれども、それを失うことを私は知っている。必ず私は貴方の手を、瞳を失う。
「…それだけで…だからもう貴方は貴方の為に、生きて……」
ずっと一緒に生きてゆく、それは夢物語に過ぎないことを私は知っている。だってもう私は貴方の『母親』でも『姉』でもいられない。今ここにいるのはただの生身の女でしかない。貴方を愛した、ただの女でしかないのだから。
ひとときの、甘い夢を見ることもできた。
『ミカヤ、好きだ』
甘い夢に埋もれることも、出来た。けれども。
『俺はずっと、ミカヤだけが』
けれども、それに溺れることは許されないの。
『…好きだ…ミカヤ……』
だって貴方の未来を、私は縛ることが出来ない。
この気持ちが愛だと気付いた瞬間、全てを終わりにしなければならなかった。全てを終わらせなければ、ならなかった。
私はずるい女なの。どんな綺麗事を並べても、本当は貴方を失うことに怯えている、ただの弱虫なのよ。
「生きてゆく時間が違う。それはどう足掻いても変えられないのだから」
どんなに誓っても、どんなに願っても、ずっとなんてありえない。それは私が一番知っている。だから、だから終わりにして。私が貴方を失う恐怖に押しつぶされてしまう前に。貴方を失う痛みに耐えられなくなる前に。
「だから『忘れないで』、か」
「―――覚えていたのね…随分昔のことなのに」
「覚えている。ミカヤが俺と約束をしたのは、後にも先にもあの時だけだ。けれどもその言葉が今…こんな風な意味を持つとは思わなかったよ」
「だって貴方に嘘は…つきたくないもの」
嘘だけはつきたくない。だからただひとつの約束をした。最初で最期のゆびきりをした。貴方への気持ちを初めて自覚した時。何れくる別れのために、たったひとつだけ。
「だからさよなら、しましょう。今ならまだ間に合うから」
「―――何が間に合うんだ?」
「…互いの気持ちと…貴方の年齢よ……」
「――――!」
突き付けられる現実から目を反らすことは許されない。どんなに甘い夢を見ていても、必ず目を覚まさなければならない日がくる。それを先延ばしにしても、ただ空しいだけだから。
「今はまだこうして並んでいてもおかしくない。でも何れ貴方は大人になり、年を取ってゆくその隣にいる私は何時までも変わらないまま。そんなの可笑しいでしょう?」
「ミカヤは、ジジイになった俺を…見たくないってこと?」
「違うわ、サザ…分かっているでしょう?…同じ時を生きられないのはどれだけ辛いか…苦しいか…分かるでしょう?」
普通に結婚して、普通に子どもを作って、普通に家族になって。そんな当たり前のことを。当たり前のことを…私たちは出来ない。
「…私は…怖いの…貴方のいない世界を生き続ける事が…卑怯だと言ってもいい…怖いのよ……」
「―――それはミカヤの本音だな」
「…私はサザには…嘘は…つかないわ…」
「…なら……」
「――――なら、なおさら…俺はミカヤから離れない」
もし、ミカヤにとって俺の存在が重荷ならば。俺が向けるミカヤへの想いが重荷ならば、離れることも考えた。俺は何れ年老いて死んでゆく。ミカヤを残して死んでゆく。けれども。けれども、それ以上にミカヤが怯えることが『俺を失う』ことならば。それならばもう俺は、迷うことも、悩むことも、ない。
「結婚しよう、ミカヤ」
「――――っ!」
「結婚して俺たち家族になろう」
「…無理よ、そんな…だって私たち……」
「俺が先に死ぬから?ミカヤより先に」
「…そうよ…私たちは共に生きられない……っ」
「―――子供を、作ろう」
「…サザ……」
「二人の子供を。そうすれば俺がいなくなっても…淋しくないだろう?」
「…でも、印付きの子供が生まれるかもしれない……」
「…印付きの何が悪い?」
「…俺はミカヤを愛した。印付きであろうがなかろうが。この気持ちは間違えなんかじゃないから」
人は決して一人では生きられない。どんなに俗世から離れようとも、どんなに孤独になろうとも。一人で生きていくことは出来ない。それは貴方の手を取った日から…分かっていた筈なのに。
「…サザ…私は……」
そう、私は知ってしまった。他人の手のぬくもりを。人を愛するという事を。この手を取った瞬間、私は今まで知らなかった全ての感情と想いを、手に入れた。
「…私は……」
だから怖かった。それはあまりにも暖かく、あまりにも優しかったから。それを失うことが怖くて。怖く、て。このひとを失うことが、なによりも怖くて。
「…ミカヤ…好きだ…それより大事なことなんて…俺には分からない……」
だから目を閉じた。だから耳を塞いだ。だから逃げようとした。そうすれば楽になれるのかと思って。色々な理由を並べて逃げようとしたのは…結局、この想いをどうやっても消す事が出来ないと分かっていたから。
だって消せるはずない。私は貴方しか、恋したことはないのだから。
ずっと恋をしている。少女のように。
「好きだ、ミカヤ」
馬鹿みたいに、恋焦がれている。
「…サザ…私も……」
ずっと、ずっと。貴方だけを見ている。
「…私もずっと…サザだけが…好き……」
離れられない。離れられるわけがない。分かっているのに。分かっているはずなのに。だってこんなにも必死に。必死に貴方を消そうとしても、心の中の想いは溢れかえってしまっているのだから。こんなにも。こんな、にも。
―――想いが溢れて、そして溺れてしまうほど、私の中に貴方がいる。
「約束、しよう」
貴方が小指を差し出す。大きくなった指を。
「…もう一回、しよう」
そっと、差し出すから。私は。
「…忘れないじゃない、今度は」
私はその指を迷うことなく絡めた。
「――――『しあわせになろう』って、約束しよう」