透明な翼



目には見えなくても、触れる事が出来なくても。確かにここにあるもの。確かにここに存在するもの。目には見えなくても、確かに『ここ』に在るもの。


もう呆れるほど見つめているような気がするけれど、それでもこうして見ていればまた新たな発見があって。それを見つけたくてこうしてずっと見つめているような気がする。
「―――前髪、伸びたな」
閉じられた睫毛は思っているよりもずっと長くて。それに気付いた時は、自分でも驚くほどに喜んでいた事を思い出す。そんな些細な事ですら、一喜一憂していた自分を。呆れるほどに無邪気にけれども懸命に恋をしていた自分を。
「…でも、そんな所も……」
手を伸ばしてそっと前髪を上げてみた。そうする事で覗く形良い額に気付かれないようにひとつ唇を落とす。あの頃のどうにも出来ない胸の高鳴りはなくなったけれど、今はその代わりに穏やかで満たされる暖かい想いがある。そっと胸の中に落ちてくる幸せで優しい想いが。
「カッコいいですよ、ハールさん」
唇を離してその寝顔を見下ろす。微かな寝息と共に閉じられた睫毛が少しだけ揺れた。この寝顔をどれだれの日々見つめてきたのかは、もう思い出せないほどだったけれど。それでも見飽きる事がないのは、きっと。きっとどんな些細な事でも、どんな小さな発見でも、見逃したくないからだろう。ずっと見てゆきたいからだろう。
「ふふ、大好き」
こんな風に素直に気持ちを告げられるようになったのは、二人を流れる時間が何よりも穏やかで優しいものになったから。そして二人の間の空気が『ふたり』のものに、なったから。


背伸びをして必死になって追い駆ける事しか知らなかった。どうすればいいのか分からなくて、どうしたらいいのか分からなくて。分からなかったから、追いかける事しか出来なかった。
『―――ハールさん…私っ……』
それでも好きという言葉は胸の鼓動が邪魔をして声にしてはくれなかった。何度も何度も頭の中で繰り返し告げた言葉なのに、目の前に立つとどうしても告げる事が出来なくて。
『お前はまだ子供だな。そんな所は』
見上げた先にある瞳は底が見えずに、ただ。ただ鏡のように自分の姿を映すだけだった。誰にでも分かるほど頬を染め、呆れるほどに焦っている子供の顔を。
『ち、違います私はもう一人で戦えます。一人の竜騎士として…っ』
『そんな所が子供だ』
大きな手のひらが、くしゃりとひとつ髪を乱した。その手の大きさに睫毛が震えるのを止められない自分は、確かに子供だった。どうしようもない程子供で、幼い程夢中に恋をしている少女だ。
『無理に背伸びするな。お前はそのままでいいんだから』
口許だけで微かに微笑った。その時初めて気がついた。その時初めて分かった。貴方がその笑みを見せる時は――――自らの想いを偽らざる言葉で伝えている事に。


その時に気がついた。その瞬間に理解した。ありのままでいいのだと。焦る事はないのだと。少しずつ前に進んでゆけばいいのだと。


あの頃の無邪気なほどに純粋な気持ちとは違うけれども、それでも恋する想いはずっと続いてゆく。ゆっくりと暖かなものへと変化し、焦りよりも穏やかさが包み込む。何も見えない程の夢中さは消えて、周りを見渡して微笑む事が出来るようになって。そして気がつく。ふたりには目には見えないけれど確かに存在するものがあるのだと。それこそがふたりが築き上げてきた時間だと。ふたりだけで作ってきたものだと。
「ハールさん、私貴方を好きになれてよかった」
無理に背伸びをし大人になろうと焦る自分を、呼びとめる声がある。その声が、その手が、自分をこの場所へと立ち止まらせてくれた。ゆっくり廻りを見る時間を、考えて進む脚を与えてくれた。迷う自分に道を示すのではなく、自分で考える事を教えてくれた。自分で選ぶ事を教えてくれた。
「貴方がいるから、私は胸を張れる大人になれた。貴方がいるから、後悔も…希望へと変える事が出来た」
自分で選んだ選択肢だから、どうあろうとも受け入れる事。自分が決めた事だから、どんなになっても進んでゆく事。導く事出来なく選ぶ事を教えてくれたから、だからこうやって今の自分を受け入れられる。今の自分を好きでいられる。それは全て。全て貴方が教えてくれた事だから。
「ありがとう、ハールさん…大好きです」
そしてそんな自分を受け止めてくれる腕がある。どんな結果になろうとも、どんな道を選ぼうとも、こうして。こうして見てくれる瞳がある。こうして包み込んでくれる腕がある。それは何よりも。何よりも、しあわせなことだった。


ずっと、遠い場所に来た。あの頃からずっと。ずっと、遠い所へ。
「――――そんなに俺が好きか?」
幼い少女は、今はもう何処にもいない。泣く事しか出来なかった少女は。
「わ、ハールさんっ何時から…何時から起きて……っ」
けれども恋する気持ちだけはずっと。ずっと、変わる事はない。
「お前がココにキスした時からだな」
ずっと、変わらない。私が貴方を好きだという事は。ずっと、ずっと。
「そんな前からですかっ?!もうっ!!」
どんなに想いが変化しても、激しさが穏やかに変わっても。それでも。


―――――好きだという気持ちはただひとつ。ひとつだけ、だから……


大きな手のひらが伸びてくる。細かい傷が沢山あるその手が、そっと。そっと私の前髪を撫でて、そして。
「俺が目、開いている時にその言葉を言って欲しいものだな」
そしてゆっくりと唇が重なる。触れて離れるだけの優しいキス。でも今はそのキスですら、優しく心を満たしてくれるものだから。幸せを運んでくれるものだから。
「…もう、ハールさんったら……」
口許だけでそっと微笑う。その顔の意味を私は知っている。その表情の意味を、私は知っているから。


「……大好きですよ、ハールさん………」


告げる言葉に貴方がまたひとつ微笑う。私はその顔をずっと見ていたかったけれど、それ以上に。それ以上に今はキスがしたかったから。だから自分から唇を重ねて。そっと、重ねて。包まれる二人だけの穏やかで優しい時に身を任せた。