優しい夢を、見ていた。あまりにも暖かく、心地よく、そして。そして、幸せだったから。それが夢だということを、忘れてしまうほどに。これが夢だと、気づかないほどに。
貴方が、微笑うから。一瞬だけはにかんで、そして。
そして少女とは思えないほど強い瞳で、真っ直ぐに私を見つめて。
私を見つめて、微笑うから。微笑む、から。
―――貴方のその笑顔が、消えることないようにと、ただそれだけを願った。
初めて出逢った時の貴方はとても小さくて、とても子供で、そして。そしてとても…強い光に包まれている少女だった。私とは正反対の、強い光の元で生まれてきた少女。生まれながらに選ばれた道を歩む少女。
『―――そなたが、ゼルギウスか』
見上げてくるその顔はどこまでもあどけないのに、瞳の色彩だけは強かった。それは生まれながらの王者の瞳。選ばれし者の、瞳。人の上に立つ者の、瞳。
『はい、サナキ様…よろしくお願いいたします』
膝を折り、深々と頭を下げた。幼い身でありながら、その動作を自然とさせる何かが、この少女にはあった。そこにいるだけで凛とした空気が自然と纏うようなそんな感覚が。
『そなたはわたしの、盾になってくれるのか?』
頭上から降り注ぐ声は、紡ぐ言葉に似つかわしくない幼く可憐な響きだった。けれどもそれすらも凌駕するほどの絶対的な、声だった。
『―――仰せのままに……』
その声に導かれるように顔を上げれば、一瞬だけ。ほんの一瞬だけはにかむような顔をして。そして。そして、花が綻ぶように微笑った。その顔があまりにも無邪気で、あまりにも、無垢だったから。私はその瞬間から、夢を見た。覚めることのない、幸福な夢を。
――――はぐれないようにと、繋いだ手が。ずっと結ばれていれば、怖いものは何もなかった。
私に与えられた手は、ふたつあった。ひとつは私の哀しみを救い、私を闇から救い出した手。もうひとつは私を導き、私の存在に意味を与えた手。どちらも私には必要なものだった。どちらが欠けても、今ここに在る『私』という存在に必要不可欠なものだった。
どちらも失うことは出来ない。どちらの手も離す事が出来ない。もしこのふたつの手が別々の方向に引っ張ろうとするならば、私はそのまま引き裂かれるだろう。引き裂かれて私という存在が失われたとしても、構わなかった。むしろ本望ですら思えた。それほど私にとって、このふたつの手は掛け替えのないものになっていた。
どちらかを選ぶことは、私には出来なかった。
『私の野望はただひとつです』
どちらの手も離す事が出来なかった。それが。
『ともに来てくれますね、ゼルギウス』
それが私の弱さであり、私の愚かさだった。
『この世界を…終わらせましょう。この醜い世界を』
それが私の罪であり、私の罰だった。
まだ幼さの残る小さな指先が、私に延ばされる。はぐれないようにと、私の指に絡まってくる。
『お前は何処にもゆくな。わたしのそばから、離れるな』
セフェラン様が公務で長い間留守にしていることへの淋しさから、気づけば何時も私を探し、こうしてそばから離れようとはしなかった。
『心配しなくても、もうすぐ帰ってきますよ。セフェラン様は決して、貴方のことを放っておくことはないのですから』
『…分かっておる…でも今は……』
繋がれている指先がぎゅっときつく、私の手を握り締めてきた。その仕草だけを見ていれば、幼い子供だ。宝物を握り締めている、幼い子供の仕種だ。けれども。
『―――今わたしは、そなたのそばにいたい。それだけじゃ』
けれども、見上げてくる瞳は。私を見上げてくる双眸は、幼い子供の瞳ではなく。その瞳、は。
『そなたのそばに、いたい』
挑むように、けれどもどこか泣きそうな瞳で。精一杯に見上げてくる瞳は―――『女』の瞳、だった。
その瞳の意味に気付いた時には、もう私は戻れない場所へと来ていた。二度と戻ることのできない場所へと。けれども、それは自分自身が望んだこと。自分自身で決めたこと。この目の前の男と戦い、そして。そして死にゆくことを願ったのは、他でもない私自身だった。
――――瞼の裏の残像は、貴方の無邪気な笑顔。皇帝ではない、ただの一人の少女の笑顔。私が護りたいと願った、ただ一つの笑顔。
全てが終わったと気付いた瞬間、自分が今まで暖かい夢に包まれていたことを思い出した。そう、暖かく優しい夢に包まれていたことに。
「――――ス………」
霞んでゆく視界の中でおぼろげに見えたものが何なのか確認しようとしたけれど、目の中に入った紅い血がそれを許してはくれなかった。今自分の見ている世界はただひたすらに生臭い紅い血の色だけだった。
「……ウ…ス………っ!!!」
遠くから声が聴こえてくるような気がした。けれどもそれもきっと、気のせいだろう。気のせいだ。だって夢から醒めた。ずっと見ていた暖かい夢から、今自分は醒めたのだから。
暖かくて、優しい夢。とても幸せな夢。幸せすぎて、哀しい夢。
『ゼルギウス』
貴方が私の名前を呼ぶ。凛とした声で。
『そなたは、私のものじゃ』
少女と女の狭間の時間の中で。真っ直ぐに見上げてくる瞳。
『誰にも渡さぬ。わたしのものじゃ』
ああ、今気がついた。この瞬間になって気がついた。
『―――わたしだけの…ものじゃ…』
死にゆくこの瞬間、私は気がついた。私の心はこの瞳に捕らわれていたのだと。
貴方の笑顔に、貴方の瞳に、貴方の声に。私はまるで幼い少年のように、貴方に恋していたのだと。貴方を、愛していたのだと。
サナキ様。サナキ、様。私は愚かです。貴方の笑顔を護りたいと願いながら、貴方の心を踏みにじっていました。どちらの手も離す事が出来ないと言いながら、自分の中に存在していた貴方への想いを閉じ込めるために、こうして。こうして、貴方を裏切りました。
貴方が私へと向ける想いを気づいていたから、貴方から離れようと思った。
私と共にいたら幸せにはなれないからと。貴方の想いに答えられないからと。
―――けれども、願っていた。貴方の笑顔を、貴方の幸せを。
それはとても矛盾した想いで。どうにも出来ない思いだった。だから、逃げた。
私は貴方から逃げました。死という場所に、逃げました。貴方が私以外の誰かと幸せになることを願いながら、それを心の奥底では見たくないと否定し。否定している自分自身にすら気付かないふりをして、この場所から逃げました。ずっと望んでいた『死』という甘美な誘惑は何時しか私の全身を蝕み、それを叶えてくれる唯一の相手を見出した時に、私はもう逃れることが出来なくなっていました。
それでも私は、ずっと。ずっと願っていました。貴方の幸せを、貴方の笑顔を。どうしたら、貴方が。貴方が、ずっと。ずっと、微笑っていてくれるかを。
はぐれないようにと、絡めた指を。ずっと。ずっと、離さなければよかった。
「ゼルギウスっ!!!!」
静かに訪れる死が。そっと、訪れる死が。ただ哀しいほどに穏やかであればいいと、それだけを思ったはずなのに。なのにどうしてだろう。どうして、最期になってこんなにも。
「…ゼルギウスっ!!ゼルギウスっ!!!!……」
こんなにも貴方のことを想うのだろう。こんなにも貴方のことを願うのだろう。どうして、こんなにも?
「逝くなっ!!わたしを置いて逝くなっ!!逝くなっ!!逝くなっ!!!!!」
こんなにも、瞼の向こう側に貴方を思い浮かべるのか。貴方の笑顔を、思い浮かべるのか。
「……ナキ……さ…ま……」
泣かないでください。こんな私の為に泣かないで。貴方の涙はこんなことの為に流してはいけない。貴方は未来に生きる人なのだから。
「…サ…ナキ……さ………」
貴方の笑顔が見たいんです、そう言葉にしようとして、声にならないことに気がついた。ああ、もう。もう私は声を紡ぐことが出来ない。もう、視界もおぼろげで、何も見えなくなっている。さっきまで一面を染めていた紅い視界も、もう。もう、見えなくなっている。
「駄目だっ!!駄目だっゼルギウスっ!!わたしを…わたしを独りにするなっ!!!」
もう、なにもみえない。みえなくて、まっしろになって。
まっしろに…ううん、ちがう…まっしろじゃない。
わたしの、まぶたのむこうがわに、あるえがおが。あなたの、えがおが。
・・・そっとはにかんで、そしてほほえむ、そのえがお…が……
あなたが、微笑うから。無邪気な顔で、微笑むから。だから、私は忘れていた。ながい夢をみていたことに。かなしいほどにやさしい夢を、みていたことに。
「――――ゼル…ギウス………」
冷たくなったその指先に、サナキは自らのそれを絡めた。はぐれないようにと必死に。必死に、絡めた。けれどもその指先は自分を連れて行ってはくれない。何処へも連れて行ってはくれなかった。
「…そなたは最期になって…わたしの一番欲しかったものを…くれるのだな…」
こうしてずっと絡めていれば、体温が伝わって、そして。そしてぬくもりを分け合える気がした。ぬくもりを、分け合いたかった。
「……くれるのだな…わたしに………」
決してもう二度と名前を呼ぶことのない冷たい唇にひとつサナキは口づけた。それは最初で最後の、キスだった。ただ一度きりのキス、だった。
――――愛しています…サナキ様………
優しい死が訪れる瞬間、ゼルギウスの最期の言葉を聴いたのは…自分だけだった。