心地よい風がひとつ吹いて、その髪を揺らす。ふわりと、ひとつ。それを見ていたらひどく。ひどく、心が暖かくなった。
こんな穏やかな日々が、ずっと続いてくれたならば。きっと怖いものなんて何もなくなるんだろうと思った。何一つ、なくなるのだろうと。
「―――やっぱり、ここにいた」
ジルはため息とともにその言葉を呟いた。けれども呟いた相手にその言葉が届くことはなかったが。
「…どうして、こう……」
その先の愚痴を言おうとして、無駄な事に気づいて諦めた。何を言っても今更にしかならないことはジルが一番分かっている。それでもつい言いそうになってしまうのは、もう癖というか条件反射のようなものだった。そう、もうこの愚痴ですら『日常』に組み込まれている。
「もう、しょうがないな」
もう一度ため息をつくと、諦めたようにジルは隣に座った。木陰で熟睡をしている、ハールの隣に。
こうしていると、あの戦いが夢のように思えた。人が生きるために戦った、あの日々が。まるで遥か彼方の事のように思える。あんなに辛く、激しい戦いだったのに。眠ることすらできない緊張感、全てが終わるのではないかと怯える日々。そんな日々すらこの穏やかな日差しと、隣で聴こえる微かな寝息は、ジルを優しい日常へと導いてくれる。本当にあの日々が夢だったのだと、錯覚してしまえる程に。
「―――夢の訳…ないのにね……」
あの日々がなければ、こんな日常はあり得なかった。こんな風に愛する人の隣にいる日常。泣きたくなるくらいに幸せな毎日。あの苦しく辛い日々があったからこそ得られたものだった。あの戦いがなければ、手に入れることのできないものだった。
失ったものもたくさんあった。今までの自分の全てを壊すような価値観の変化や、最愛の父の死。特に今でも父のことを思い出せば泣きたくなるほどに苦しい。けれども。けれども、そういった全ての事を経験し、乗り越えてこられたからこそ今の自分がここにある。
それは何よりも代え難いものだった。今の自分という存在を形成するためには不可欠なものだった。
だから受け入れてゆく。どんな哀しみも苦しみも、受け入れて乗り越えて、そして。そして胸を張って生きてゆきたい。それが今自分に出来る唯一の事だから。
「…頑張っているよ、私…だから父上…私を見ていてね」
父親のように立派な領主にはなれないかもしれない。けれども、自分に出来ることは何でもしよう。父親の名に恥じないように、そして。そして何時しか自分が死ぬ時に、民にとって少しでも哀しんでもらえる存在になれたならば…幸せだと思う。
「―――ジルを…見ていてね……」
そして、自分が死ぬ瞬間、隣の人の寝顔を思い浮かべながら永遠の眠りにつけたならば、他に何もいらないと思った。
風がひとつ吹いて、その髪を揺らす。
「…ハールさん……」
見かけよりもずっと柔らかいその髪を。
「…大好き……」
ふわりと、ひとつ。その瞬間が、ひどく。
「…大好き、です……」
ひどく、しあわせで。苦しいくらいしあわせで。
――――貴方のそばにいられるだけで。それだけで、何もいらないと思った。
微かに聴こえる寝息を感じながら、ジルはそっとハールの寝顔に自らの顔を近づけた。何時も見上げてばかりだから、この角度から見る顔は新鮮だった。寝顔は飽きるほど見ているはずなのに、上からこうしてまじまじ見る機会はあまりなかったような気がする。
―――あ、睫毛意外と長い……
眼帯で隠れていない方の瞼を観察していたら、気がついた。キスする瞬間何時もすぐ目を閉じてしまうから、これは新たな発見だった。
長い睫毛を堪能してから、形の良い鼻筋を眺めて、唇の形を記憶した。感触は目を閉じればすぐに浮かんでくるのに、形となると思いだせないのは、やっぱりすぐ目を閉じてしまうせいだろう。でも目を開けながらキスをする自信は自分にはなかった。どうやったって、甘いキスに意識を溶かされてしまうから。
―――こうやって見ていると…やっぱ…カッコいいかも……
今更何をと思いながらも、反面惚れた弱みでどんな姿も素敵に見えてしまう。何時まで自分はこんな、少女のような恋心を持ち続けるんだろうかと思う。でもきっと。きっと死ぬまで、こんな風にこの人に恋をしているんだろうなとも思える。悔しいけれど、嫌になるくらいに大好きだから。どうしようもないほどに、恋焦がれているから。
幸せな日々。怖いくらいに幸せな日常。
それは貴方がいてくれるから。貴方が隣にいるから。
嬉しい時、哀しい時、楽しい時、淋しい時。
どんな瞬間でも、どんな場面でも。貴方が。
――――貴方がそばに、いてくれるから。
分け合えることも幸せ。分かち合えることの喜び。
どんな時間でも貴方と共有できるならば、それは。
それは何よりもかけがえのない時間なの。何よりも。
大事な瞬間なの。何よりも大切な場面なの。
「……ジ…ル………」
名前を呼ばれてびくりとすれば、次に聴こえてきたのは、穏やかな寝息だった。すやすやと何事もないように眠っている。こちらは名前を呼ばれただけで、今だに、どきどきしていると言うのに。
「…もう…ハールさんったら……」
ジルの手がそっと延ばされ、その髪に触れた。指に馴染む髪に触れて、そのまま。そのまま寝息が聴こえる唇にひとつ。ひとつ、キスをした。
「…目、開けたら夢の続きなんて…寝ぼけないでね……」
もう一度キスをして、ハールの隣に身体を丸めて、そのままジルも眠りにつく。愛しい人の寝息を聴きながら、夢でも逢えるようにと。
…どんな瞬間でも、どんな場面でも、一緒にいられるようにと……