最初で最期の、キス。ただ一度だけの、キス。その優しい思い出だけを胸に抱いて、私は眠る。そっと、眠るの。
―――これがしあわせって、いうことなのかな?
差し出された小さな手のひらに、そっと。そっと触れてみた。それはとても、暖かかった。
「…あんた、こんなに小さかったんだな……」
すっぽりと自分の手の中に包まれてしまう手。しゃがみ込まなければ、視線を合わせられない身体。小さな、少女。
「ずっと眠っていたから、だから子供のままよ。アスタルテとは違って…がっかりした?」
「いいや、驚いたけど…あんたがどんな姿でも、あんたはあんただ。ユンヌ」
見上げてくる大きな瞳はまるで硝子玉のようだった。きらきらと光っていて、そして。そして自分の間抜けな顔を映し出している。それがひどく可笑しかった。
「そう言ってくれるのね…ううん、アイクなら…そう言ってくれると思ったよ。ありがとう」
繋がっている手のひらにぎゅっと力が込められた。それに答えるようにアイクはしゃがみ込んで、彼女と視線を合わせる。同じ位置に目の高さを、合わせて。
「ありがとうは、まだ先だ。全てが終わったら…その時言ってくれ」
優しい笑顔を、向ける。優しすぎるほどの、笑顔を。その笑顔を見ていたら、何故だろう?どうしてだろう、ひどく泣きたくなったのは。
これは好奇心なのだろうか?人間が好きだという好奇心?
違う。それだけじゃない。それだけじゃないものが、生まれている。
私の中に生まれている。それはとても。とても暖かい。とても苦しい。
――――けれども、とても。とても、うれしいもの。
触れたかったの。その手に触れてみたかったの。大きくて強いその手に。
ミカヤの身体じゃない。自分自身の身体で。自分自身の手で。
貴方に触れてみたかったの。貴方の体温を、感じてみたかったの。
初めて触れたその手は、暖かい。とても、暖かい。
「…アイク……」
貴方の心のように暖かいから。だから、ずっと。
「…私は……」
ずっと、触れていたい。貴方に触れていたい。
―――それは叶わないことだけど。きっと、永遠に叶わないことだけど。
繋がっている指先が静かに離れて、その大きな手が頬に触れた。触れて、そっと。そっと包み込む。その暖かさが、ずっと残ればと願った。この暖かさが、ずっと。ずっと自分の中に刻まれればと。
「あんたがもし女神じゃなかったら…俺は……」
その先の言葉を聴いてしまったら、きっと。きっと、この姿になったことを後悔してしまう。こうして実体になって現われてしまったことを。だってこれは。これは一夜限りの幻なのだから。
「アイク、らしくないよ。そんな顔、らしくないよ」
「そうだな…俺、何言ってんだろう……」
告げようとした言葉をアイクは寸でのところで飲み込んだ。そうだ、この先は。この先は告げてもどうにもならないこと。どうすることも出来ないこと。だから、告げてはいけない。
「せっかくこうして逢いに来たんだから、笑ってよ。喜んでよ。私アイクのそんな顔が見たいんだから」
「気まぐれな女神様だな…でもあんたらしい」
「でしょ?私は自由が好きなの。だからアイクが好きよ。アイクの纏う空気は自由がいっぱいだから」
「最初は嫌いとか言ってなかったか?」
「それは私の事『邪神』とか言ったからよ。でも今は違う」
見つめる、瞳。見つめ合う瞳。今映し出しているものをずっと。ずっと、忘れないように。今この瞬間を鮮やかに閉じ込めておけるように、お互いを見つめる。お互いだけを、見つめる。それが今。今出来ることの全てだから。
「―――今は、大好きよ。アイク」
胸の中に芽生えた想いが、恋だと気付いても。この苦しいほどに切ない想いの名前に気が付いても。それはどうにもならない事で。どうにも出来ない事で。けれども。けれども、この胸に生まれた想いを消したくなくて。消したくない。だって、これだって。これだって私の大事な『一部』なのだから。全てが終わって、私という存在が消えて、そして別のひとつの命になっても。そうなっても、ここに今在る想いは…私だけのものだから。
包み込む手のひらの力が一瞬だけ強くなる。
「…卑怯だな…あんたは」
それだけで、いい。それだけで、いいよ。
「さっきは俺の言葉―――止めさせた癖に」
もうそれだけで、充分だよ。私には伝わったから。
「あんたは俺に告げるんだな。俺の中に」
伝わったから。だから、持ってゆくね。全部、持ってゆく。
「俺の中にこんなにも強い想いを植え付けながら」
――――優しくて苦しくて、切なくて、でも。でもしあわせな想いを…持ってゆく……
女神だって恋をする。だって私は完ぺきな存在じゃないんだもの。だからね、こうやって。こうやって悩んだりするの。傷ついたりするの。哀しかったり、嬉しかったりするの。だって決められないもの。正しいことも、間違ったことも。それは他人が決めることじゃない。自分自身で選び取るものだから。だから、私だってこうして。こうして、貴方に恋をしてしまうの。その気持ちは私が、選んだものだから。
――――私自身が選んだ選択肢だから。だからこの気持ちは私だけのものだ。
笑って、アイク。私貴方の笑った顔好きなの。どんな時でもどんな場面でも乗り越えてゆける、そんな強さを持つ太陽のような笑顔が。だから、ね。だから笑って。
「だってこの気持ちは、私が確かにここに存在した証拠だもの」
私も笑うから。いっぱい笑うから。貴方の中にこの笑顔が刻まれるように。瞼の裏に残る私の存在が笑顔であるように。
「私という存在が確かに『ここ』にあったんだっていう証だもの」
だから覚えていてね。私が私じゃなくなっても。別の存在になってしまっても、今。今ここにいる小さな私を、貴方だけは覚えていてね。―――覚えていて、ください。
包み込む手のひらが、そっと何かを拭う。それが何かと気付く前に。気がつく、前に。その唇がゆっくりと塞がれた。
触れるだけの、キス。ただそっと触れるだけの。
「―――ユンヌ……」
触れるだけの、キス。それは最初で最後の、キスだった。
「…だったらその涙も…俺が持ってゆく……」
ただ一度きりのキス。でもそれだけで。それだけで、私は。
「…俺が…持ってゆくから……」
それだけで、私はしあわせだから。しあわせ、だから。
ぽたりとひとつ落ちた涙を、そっと拭う手のひらは暖かい。不器用だけど優しい手は、とても暖かい。
もうすぐ私の世界は終わる。私の世界は閉じられてゆく。けれども。けれども、持ってゆくから。貴方の想いを、持ってゆくから。
――――それはきっと。きっと、永遠に。