見上げた空があまりにも眩しくて、耐えきれずに目を細めた。頭上から注がれる光の色彩があまりにも強くて、そしてあまりにも遠かったから、だから。だから今いるこの場所が世界から切り取られた空間のような気がして、ひどく不安になった。
足許からゆっくりと這い上がってくる恐怖と怯えが、何時しか自分の全身を包み込んでしまうのだろうか?包み込んで、壊してしまうのだろうか?
初めてその碧色の瞳を見た時、ひどく不安になった。理由のない不安と怯えが同時に自分を捕え、もがくことすら出来ず、ただその碧色を見つめ返すことだけで精一杯になっていた。
「―――初めまして、サザと言ったね…私はソーンバルケ。しばらくこの軍にやっかいになる事になった。よろしく頼む」
差し出された手の節くれだった指先が、剣を握る手だという事は直ぐに分かった。アイク団長と同じような、強く大きな手。そしてそれ以上に『大人』の手だった。自分の子供の手とは違う、逞しく立派な大人の手。
「よろしく」
必要以上に身構えたせいで、ひどく無愛想に返答していた。元々愛想はよくなかったが。それでもここに来て随分とマシになったと思っていたのに。思っていたのに、どうしてだろう…目の前の相手に、ひどく緊張してしまうのは。
「―――よろしく」
そんな自分に目の前の男は穏やかな笑みを浮かべて答えた。穏やか過ぎて、底の見えない…奥底を見せない瞳。その瞳に映っている自分の顔を見つめたら、何故だかひどく苦しくなって、そして。そして、泣きたくなった。
切り取られた場所にぽつんと独り立っているような気がして、何時も不安だった。足許が崩れていくような気がして、何時も怯えていた。その理由も原因も分かっているのに、どうにもならなかった。どうにも出来なかった。ただ焦りだけが自分を襲い、それから逃れることもできずに、ただ。ただその場に立ち尽くすことしか出来なかった。
―――今の自分はただの無力な子供で、ちっぽけな塊でしかなかった。
身体を丸めて眠るのは、昔からの癖だった。こうしていなければ、剥き出しの冷たい地面の上で眠ることが出来なかったから。暖かい寝床を得た今でも、どうしてもこの癖を止めることが出来なかった。
「お前は、何かを探しているのかい?」
何時ものように身体を丸めた瞬間、その声が頭上から降ってきた。穏やかな、その声が。
「―――どうして、そう思う?」
初めて声を掛けられたあの日以来、無意識に避けてきた相手だった。出来るだけ近づかないようにしてきた相手だった。なのに気付けば、視界にその碧を探していた…相手だった。
「何時も、視線がさ迷っている」
顔を上げて、その瞳を見つめてみた。予想通り穏やかな、碧色の瞳。穏やか過ぎて、不安になるその瞳。
「…よく、見てるんだな…余裕だな」
全てを受け入れてそして。そして反射する瞳。全てを見透かして、全てを奥底に埋める瞳。こんな瞳を持っている人間を、自分は知らない。知らないからこんなにも。こんなにも、怖いと思うのか?
「お前は嫌でも私の視界に入ってくる…困った事に」
柔らかく、微笑う。初めて見た時からずっと。ずっとこの表情を浮かべている。どんな時でも、どんな瞬間でも。だからなのか?だから今こんなにも、望むのか?この笑み以外の表情を見てみたいと思うのは。
「それはどういう意味だ?」
「―――こういう意味だよ……」
大きな手が、伸びてくる。そのままその手がふわりとひとつ、髪を撫でで。優しく髪を、撫でて。
「お前みたいな子供がそんな瞳をするのを…私は見たくないんだ」
そっと。そっと、抱きしめてくれた。小さな子供をあやすように、そっと。
―――それは初めて自分に与えられた『大人』の腕、だった。
自分がどれだけちっぽけで無力な存在なのか、それは嫌という程に分かっていた。自分ひとりの力では何も出来ないという事を。ミカヤと離れ離れになって、その事を嫌になるくらいに実感した。自分は何も、出来ない。今こうして生きているのも、ミカヤの存在があったからだ。今ここにある命は、彼女が救ってくれたものだ。ミカヤがいなければ何も出来ない自分。そんな彼女を探し出すことすら満足に出来ず、焦るだけの日々。焦ることしか、出来ない自分。本当にただのちっぽけなガキでしか、ない。
「…離せよ…誰か来たら……」
やっとの事で出てきた声は、言葉とは裏腹の声だった。自分でも分かるくらいだから、目の前の相手には見透かされているのだろう。―――拒絶よりも、求めている声に。
「こんな夜更けに、他人の寝床に来る物好きはいないよ」
穏やかな声に心を乱される。乱されて、暴かれていく。それが怖くて必死に留めようとしても、与えられるぬくもりがそれを許してくれない。許して、くれない。
「…何で…よりによって…今日は…お前と一緒の部屋なんだよ……」
「さあ、どうしてだろうね。でも私は今この瞬間でなくても…きっとお前にこうしていたと思うよ」
「…俺が可哀想なガキだからか?」
優しい腕。優しすぎるぬくもり。駄目だ。駄目…だ……コレを俺に与えないでくれ。こんなにも心地よいものを俺に…与えないでくれ……
「その理由がお前にとって一番都合がいいのなら…それで構わないよ」
知らなかったもの。知らなかった、暖かい腕の中。包まれることの心地よさ。全てを預けられる広い腕。それが今自分に無条件に与えられている。見返りも何も無く、与えられている。
知らなかったもの。知ってはいけないもの。
「…お前は…怖い……」
気付いてはいけないもの。閉じ込めなければならないもの。
「…お前を見ていると…俺は……」
必死に閉じ込めて、そして蓋をしなければならないもの。
「…俺は…全てを……」
でも、零れてくる。つま先から、髪から、零れてくる。
「…全てを…お前に…預けてしまいたくなる……」
零れて、溢れて、そして埋めてゆく。自分の全てを、埋めてゆく。
――――初めて出逢った時怖いとそう思ったのは…今まで知らなかった感情がこうして剥き出しにされてしまうから……
初めて、知った。初めて、気がついた。自分の心の中にこんなにも醜く暗い欲望が存在することに。
「預ければいい。お前がそう望むなら」
この腕が欲しい。このぬくもりが欲しい。この瞳が…欲しい。この目の前の相手が、欲しい。どうしようもなく、欲しい。
「―――駄目だ、そんなの。俺にはミカヤがいる…ミカヤだけが、俺の全てだ」
「それがお前の、探しものかい?」
「そうだ。俺はミカヤのおかげでこうして今を生きている。大事な家族だ。誰よりも大切な家族だ」
そうだ、家族だ。ずっとふたりで生きてきた。ふたりきりで、生きてきた。この命も身体も全部。全部、ミカヤのためだけにある。ミカヤのためだけに。
「そうか、だからお前はそんな瞳をしていたのか。でも」
「…でも…?……」
「…お前はお前だけのものだよ、サザ。他の誰のものでもないお前だけのものだよ」
初めてその瞳を見たとき、ひどく哀れだと思った。その不安げな翠色の瞳が、ひどく哀しく見えた。何かに必死にすがりながら、それでも何かから逃れようとしている瞳。だからだろうか、何故か。何故か、目が離せなくなったのか。
小さな子供だと思った。哀れな子供だと。けれども、時々見せるひどく大人びた表情が、私を捕らえた。捕えて、そして離さなくなっていた。
髪に触れて、そっと抱きしめてやれば、こみ上げてくるものがある。
「…そんなの…誰も…教えてくれなかった……」
この小さなぬくもりを腕に包めば、溢れてくるものがある。
「…誰も俺に…教えてくれなかった……」
溢れてきて、そして。そして私を満たしてくれるものがある。
「…俺は…ミカヤ以外の…他人を…ミカヤ以外の誰かを……」
ああ、そうか。そうかお前は。お前は私と同じなんだ。私と同じ、だ。
「…必要とは…しなかった…から……」
空っぽの器に注がれるものがある。何も持たなかったからこそ、注がれるものが。
――――他に選択肢がなかったから、こうして生きる以外の方法を知らなかったんだ。
生まれて初めて、自分から欲しいと思った。
「―――ソーンバルケ……」
目の前の相手をどうしようもなく欲しいと。
「…ソーン…バルケ……」
自分の心の奥にこんなにも、醜い想いがあることを。
でもそれは剥き出しなった、自分の本心だった。剥き出しにされた、こころだった。
背中に腕を廻してみた。広くて逞しいその背中に。こうして腕を廻してしまえば、もう。もう、離す事が出来ないことを分かっていても。
「…名前を呼ぶだけで、苦しい…こんな俺にしたのは…お前だ……」
見つめる。その碧色の瞳を見つめる。深い色彩は決して底を見せることはない。どれだけ望んで、どれだけ願えば、それを見ることが出来るのか?
「…お前が…俺を…壊すんだ……」
耐えきれずに、その唇を塞いだ。生まれて初めての口づけだった。やり方が分からないから、がむしゃらに唇に吸い付いた。そんな自分を抱きとめる腕は、どこまでも優しい。哀しいくらいに、優しい。
「…壊してあげるよ…今までのお前を…だから…私に全てを預ければいい…どんなになっても、私はお前をこうして…こうして、抱きしめるから……」
生まれて初めて、知った恋は。ただひたすらに苦しく、醜く、けれども。けれども、何よも正直なただひとつの想いだった。