――――瞳を閉じて、見る夢は。瞼の裏に、焼きついた残像は。ひとつひとつ剥がれていって、そして。そして最期に瞳の奥に、残ったものは。
瞼を開いた瞬間。その瞬間に飛び込んできた穏やかな碧色の瞳に、ただ泣きたくなった。
その広い背中に腕を廻して、存在を確かめた。これは夢ではないんだと。このぬくもりは本物なのだと。指先でその筋肉を辿って、確かめた。
「どうしたんだい?」
目覚めた瞬間に抱きついてきた相手に、ソーンバルケは優しく尋ねる。いつも、そうだ。いつも、嫌になるくらいに優しい。その優しさが、自分を傷つける事を知っていながら、優しい。
「―――何でもないよ、ちょっと寒いって思ったから」
「さっき散々、暖めてやっただろう?」
「…そういう事、真顔で言うな」
「何を今更…恥ずかしがる関係でもないだろう?」
そう言われて、抱きよせられる。暖かい腕の中。心地よい腕の中。生まれてから、今まで知らなかった『大人』の腕の中。誰ひとり自分に与えてくれなかったもの。でもいまそれはここに、在る。サザが望みさえすれば、幾らでも与えてくれる。幾ら、でも。
「お前があんな風に乱れるのを知っているのは、私だけだ」
「―――ソーンバルケ……」
「ん?」
「キス、して」
「…ああ、望むなら、幾らでも……」
ミカヤさえ知らない顔を知っている唯一の男。自分さえ知らない顔を知っている唯一の相手。きっと自分ですら説明のつかない想いですら…知っているのだろう。永遠に逃れられない迷路の中に迷い込んだ自分の心でさえも。でも。でも、その答えは、彼の口から導き出されることはない。
「…ソーン…もっと……」
触れるだけのキスがもどかしくて、もっととねだる。もっとぬくもりが欲しくて。もっと暖かさが欲しくて。
「―――仕方ないな……」
くすりとひとつソーンバルケは微笑うと、サザが望む激しい口づけをくれた。全ての思考と全ての意識が奪われる、激しいキスを。
ミカヤを一人残して死ぬ事に怯えながら、この男の瞳に映って死にたいと望む。矛盾した想いだけが何時も心を支配している。ミカヤのそばにずっといることは出来ない自分。先に年老い、死んでゆく自分。それは哀しみだった、恐怖だった。自分だけが成長し、ずっと変わらないミカヤを見ていくことが。けれども。けれども、この腕の中にいると…その恐怖すらも違うものへとすり替わってしまう。甘い、痺れへと。
――――自分が死ぬ瞬間を、彼に。彼に見せる事が出来る。
自分の方が必ず先に、死ぬ。それはなんて甘美な誘惑なのだろう。目の前の男を失う恐怖に怯えることはない。この腕を失うことは…ない。この瞳に見守られ死んでゆくことが出来る。それは何て、幸福なことだろう。
矛盾した想い。大切にしたい綺麗な気持ちと、醜い心の本音。どちらも真実だ。自分にとってどちらも本当の事だ。だから。だから、どうする事もできなくて。どうにもならなくて。考える前に、その腕を、その唇を、求めてしまう。
髪に指を、絡める。柔らかいその髪に。
「…俺が、死んだら……」
指先に伝わる感触は、記憶した。すぐに、記憶した。
「…お墓、作ってくれよ……」
忘れたくても忘れられないだろうから、記憶した。
「…お前の手で、ちゃんと……」
消したくても、消えないだろうから。だから、全部。
「―――それは、壮絶な愛の告白だと受け取ってもいいのかい?」
だから、全部記憶した。お前と名のつくもの全てを、俺の全てで。
「…好きとも、愛しているとも言ってくれないお前の…唯一の本音と受け取ってもいいのかい?」
自分という存在が溶けてなくなっても。お前という存在が、感触が、残っているように。
「…さあな……」
カタチがなくなって、液体になって、そして蒸発しても、そこに。そこに、この柔らかい感触と、泣きたくなるくらい優しいぬくもりが、残るように。
「お前らしい回答で、安心したよ」
唇が降ってくる。髪先に、瞼に、鼻筋に。そっと、降ってくる。どうしてだろうか、激しいキスよりも、こんな触れるだけのキスの方が、気持ちが伝わってくるのは。どうしてなんだろう、こんなにも苦しくなるのは。
「―――サザ……」
名前を呼ばれて瞼を開ければ、穏やか過ぎて心をざわつかせる碧色の瞳がある。それはきっと。きっと自分が死ぬ瞬間まで、変わらないのだろう。きっと、ずっと。
「…ソーン……」
変わらなくていい。変わらないでほしい。だから死ぬ瞬間を見てほしい。命がなくなる時、その瞳を向けてほしい。そうしたら、自分はミカヤへの罪悪感すら忘れ、幸せな気持ちで死んでゆけるから。幸福なまま、瞳を閉じられるから。
「好きだよ」
唇が、重なる。今日二人はどのくらいキスをしたのでろうか?数えきれないくらいキスをしている。唇が渇く間もなく、何度も。何度もしている、蕩けるような、キスを。
―――お前は、矛盾した想いをその両手では抱えきれなくて、いつしか壊れてしまうのだろうか?
その原因を作ったのは自分だけれど。
その瞳を、心を奪ったのは自分だけど。
けれども。お前がそれを、望んだ。
私の腕に抱かれる事を。一瞬の安らぎを。
―――お前が望み、私が答えた。私が欲しがり、お前が奪われた。
腕の中のぬくもりがどんなに私にとって愛しいものか。あどけなさの残る瞳が自分をまっすぐに見つめる瞬間が、どんなに。どんなにかけがえのない瞬間なのか。お前は知らないだろう。お前が思っている以上に、私はお前に捕らわれている事を。
身体を丸めて眠る癖をなくさせてやりたくて、背中に腕を廻させた。誰もお前を傷つけないよと、ここにいる限り大丈夫だよと。
―――そう願いながら、誰よりもお前を傷つけているのは…他でもない私だ。
それでも、何よりも。何よりも大切に想っている。お前のことを、想っている。
指を、絡めた。互いの指を絡めて、体温を確認した。互いのぬくもりを確認した。それだけが、全てではなくても。それでも、確かめたかった。この暖かさが本物だということを。
「…ちゃんと俺を、見ててくれ…どんなになっても……」
瞼を閉じても、分かるように。その穏やかな視線が降り注がれていると、分かるように。何もなくなっても、何もかもが失われても、この瞳だけは。
「―――見ているよ、お前を。ずっと、見ている」
この瞳だけは、自分を映しているんだと。ずっと見つめていてくれているんだと、それだけを信じさせてほしいから。
瞳を閉じても、夢すらみないほど、その存在に埋もれていたいから。