――――小さな、胸の痛みが疼いてくる。ちくん、と。
髪に指を絡めれば、意外なほどに柔らかかった。もっと日に焼けて、ぱさぱさしていると思ったのに。
「お前の髪、太陽の匂いがする」
そんなものの匂いなんて、本当は知らないけれど。けれども、きっと。きっと暖かい日差しの匂いは、こんな香りなんだろうなって思ったから。
「それは褒め言葉と取っていいのかい?」
頭上から降ってくる声に瞼を開ければ、そこにあるのは穏やかな碧色の瞳。穏やか過ぎて、底が見えない深い碧色。
「―――好きに、解釈していいよ」
髪に絡めていた指先をその広い背中に降ろして、そのまま抱きついてみた。その瞬間ふわりと、広い腕の中に包まれる。その瞬間が、泣きたくなるほどに好きだ。どうしようもないほどに、好き。
「ソーンバルケ」
「ん?」
「…俺は、卑怯か?」
「卑怯なんかじゃないよ。人は強がってばかりでは生きていけない。そうだろう?」
「でも『ここ』に逃げている。お前の腕の中に」
「お前は逃げているんじゃない―――私に、捕らわれたんだ」
その大きな手のひらに顔を包まれる。そしてそのまま。そのままそっとひとつ口づけられた。それは瞼が震えるほどの、甘い口づけで。甘すぎるほどの、口づけで。だから。だから、意識が溶かされた。考えなければならないはずの全てが拡散して。そして。そして、何もなくなった。この腕の中の暖かさ以外、全て。
初めて逢った時、似ていると思った。匂いが、纏う空気が、ミカヤに似ていると。だから惹かれたのかもしれない。ミカヤと離れ離れになって、必死で捜しても見つからずに、途方に暮れていた時に出逢ったから、心に隙が出来ていたのかもしれない。
でもそれすらも今思えば、ただの言い訳でしかないのだけれども。都合のよい言い訳でしかないのだけれども。それでも自分自身の想いに説明をつけるために、必死で心の中で言い訳をしていた。
――――この気持ちに、理由なんてないのに。理由すらも思いつかない場所で心が求めたのに。
説明のつかない想いに、どうやってケジメをつければいいのか分からなくて、ただ必死に否定をしている。違うんだと、心地よさに逃げているだけなのだと。
「キスが、上手くなった」
挨拶なんかではすまされない口づけ。蕩けるほどの甘い口づけ。こめかみが痺れるほどの、心が疼くほどの口づけ。このまま、溶けてなくなってしまいたいと思うほどの。
「…お前の…教え方が…上手いからだ……」
口づけだけなのに、意識が蕩け、息が上がる。瞼を開けた先の瞳は潤んで、きっとだらしなく欲情した色を見せているのだろう。でももうそれを。それを止める術を知らない。
「――――誘うのも、上手くなった…私が欲しいか?」
「…欲しい…お前が…お前の全部が、欲しい……」
頬を包み込む指先を、自らの口許に運びそのまま指を舐めた。わざとぴちゃぴちゃと音を立てながら。上目づかいに媚びるように、その碧色を見つめながら。
「…いいよ…お前が望むのなら…いくらでもあげよう」
舐めていた指先が唇に触れる。そのまま唇のやわらかい部分をなぞり、そっと。そっと、指の後を辿るようにざらついた舌が触れた。その感触に安堵したのか、無意識のうちにため息がひとつ、零れた。
―――ミカヤが自分だけの『家族』ではないと理解した日。不思議と淋しくはなかった。
もっと自分の心は取り残されるのだと思ったのに。全てを失って絶望すると思ったのに。すんなりと自分の心の中で、事実として受け入れていた。ミカヤがデインの王となり、自分だけでなくデインの皆のものになる。その事実を戸惑うことなく受け入れていた。
分かっている、原因はただひとつしかない。ミカヤへの想いすら、届かない場所で生まれたこの欲望のせいだと。この醜いまでに沸き上がった、この執着のせいだと。
指が、触れる。わざと焦らすように、そっと触れる。そのもどかしい刺激に耐えられずに、サザはイヤイヤと首を振った。
「…もっと…ソーン…っ…」
無意識に指に胸の突起を押し付け、より深い刺激を求めた。その動作にソーンバルケはひとつくすり、と笑った。サザが気付かない間に。
「…もっと、どうして欲しい?……」
胸の果実を指の腹で軽くなぞりながら、ソーンバルケは尋ねた。その声にすら、サザの瞼は震える。低く掠れた声で煽られて、睫毛が、髪先が、震える。
「…もっと…俺に……」
「―――ちゃんと言葉にしないと分からないよ」
「…俺に…触って…っ……」
羞恥心はいつの間にか消えていた。それよりももっと。もっと醜く深い欲望が自分の心にあると分かった瞬間に。その瞬間に、剝きだしになった自らの欲望に飲み込まれた。
「望みどおりに」
「…ああっ!……」
胸の突起をぎゅっと強く摘ままれ、サザは悲鳴のような声をあげた。けれどもそれはすぐに甘い吐息へとすり替わってしまう。甘い快楽の罠へと堕ちていってしまう。
「…あぁっ…はぁっ……」
ざらついた舌で胸を舐められ、指先で捏ねられる。もうそれだけで、浅ましいほどの敏感な身体は、火照り疼く。
「…ソーン……キス……っ……」
「ん?」
「…キス…して……」
快楽で息が上がる唇を必死で動かし、舌を伸ばした。それに答えるようにソーンバルケの舌が絡まる。その濡れた舌の感触に満足したように、サザは瞼を閉じて貪った。生暖かい舌を、何度も何度も、貪った。
――――小さな、胸の痛み。ちくりと、ひとつ。
それは昔の自分を裏切ったことの痛みなのか?それともこんなにも簡単に想いが塗り替わってしまったことへの後ろめたさからなのか?それとももっと。もっと別のことからくる、ものなのだろうか?
分からない。分からないよ。色々混じり合って。何もかもが。
想いが一つだけならばよかった。
ひとつしかなければ迷うことなくまっすぐ。
まっすぐにそれだけを見ていればいい。
それだけを、思っていればいい。
何も悩まず、何も考えずに、それだけを。
それだけのために、生きていれば、いい。
でも、知ってしまった。俺は、知ってしまった。
「…ソーン…っもっと…もっと……っ」
このどうしよもないほどに溢れる想いを。どうにもならない気持ちを。
「…もっと…俺をっ…」
惹かれて、焦がれて、そして飲まれてゆく。
「…俺を滅茶苦茶に…して…っ…もっと……」
深くて暗い、けれども透明な場所へと堕ちてゆく。もう二度と。
「…もっと…もっと…ああっ!」
もう二度と戻れない場所へと、俺は堕ちてゆく。でもそれは。
――――それはおれが、のぞんだことだ……
貫かれる痛みすら、嬉しい。擦れ合う肉の感触に、歓喜し声を上げる。浅ましい内壁は楔を逃さないようにと必死に締め付ける。きつく、締め付ける。
「…あぁっ…ああ…ああんっ……」
繋がった部分から聴こえてくる濡れた音だけが、意識を埋めてゆく。ぐちゃぐちゃと、響くその音だけが。
「気持ちいいかい?」
言葉が紡げないから、こくこくと何度も頷いた。そのたびに中のモノが動いて、息を上げさせる。でもそれすらも、今は。
「―――うん、私も気持ちいいよ……」
今は、全て快楽へと導くものでしかなくて。意識を飲まれさせるものでしかなくて。何もかも、全てが。
「―――っ!あああっ!!」
全てが真っ白になる。何もかもが、真っ白に。その瞬間が一番、生きていることを実感した。
広い背中に爪を立てられることが。
火照った肌を重ね合わせることが。
何度も何度も、唇を重ねることが。
――――そのすべてが、なきたくなるほどの、しあわせ。
何で俺、こんなにもお前が好き?
どうしようもないほどに、お前のことが。
お前のことが、すきなんだろう?
どうしていいのか分からない。分からないから、こうして。こうして肌を重ねるのかな?
「…サザ……」
汗で濡れた髪をそっと撫でてくれた。
「お前を捕まえたのは私だ」
そっと、優しく、撫でてくれた。
「だから、お前は何も考えなくていい」
それだけで。それだけで、俺は。
「…考えずに、私の腕の中にいればいい……」
泣きたくなるほど、しあわせなんだ。
頭上から降り注ぐその声が、何時しか胸の痛みを消していった。