Because



―――選択肢がひとつしかないのならば、その手を取る相手は決まっていた。


もしも、今どちらかの手を離さなければならないとしたら。今この瞬間に離さなければならないとしたら、答えは決まっている。その答えが変わらない限り、俺はただひとつの願いだけは叶えられない。それだけがどうしても、出来ないことだった。


彼女が真っすぐな瞳を向けて、俺に告げる。それは俺が初めて見たミカヤの瞳だった。今まで見てきたどんな彼女よりも強くて、そして。そして揺るぐ事のない瞳、だった。
『サザ、私に力を貸して』
不思議だと思った。ずっと誰よりも彼女を見てきたのに、俺は。俺は、今こうして今まで知らなかった新しい『ミカヤ』と向き合っている。
『お願い、サザ。私が立派な王になれるまで…私のそばにいてください』
差し出される指先は細くて頼りない。それはずっと。ずっと自分が握りしめていた指先。大切に護ってきたもの。なのに何故だろう、その指先がまるで別の生き物のように見えたのは。
『―――私の…そばにいて……』
その手を取ることは、俺にとって『当たり前』の事だった。生まれてからずっと決まっていた、俺が取るべき手は。―――それはこの、指先だけ。

――――迷いなど、あってはならないことだから……

指を、繋ぎ合わせる。変わる事のないぬくもり。けれども何処か違うと感じるは、きっと自分が変わってしまったせいだ。変わりたくないと怯えながらも、それでも心の底から望んだものがあるからだ。どうしても消す事の出来ない、このどうしようもない想いが。
『ありがとう、サザ』
それでも、この手を結ぶ。それはずっと、子供のころから。この手だけが俺を見つけ、そして導いてくれた。だからこの手を離すことなんて、出来ない。


――――それでも、お前を愛していると心で叫ぶ俺は…愚かなのか?


ただひとつだけ、願いがあった。それは決して叶わないことだけど。
ただひとつだけ、どうしても。どうしても、諦められない事があって。
諦めきれないから、こうして。こうして自分を壊してまでも。
心を少しずつ壊していっても、矛盾だらけの想いを抱えても。


――――俺はお前から離れる事が…出来ない……



願いはただ一つだったのに、どうしても。どうしてもそれだけが、叶えられなかった。とても簡単で、とても大事なことなのに。
「…ソーンバルケ……」
名前を呟いて、その髪に触れた。柔らかく、指に馴染んだその髪を。もう記憶する事すら意味がない、指が知っている感触。髪からそっと額に触れて、隠された印を暴く。起こさないようにそっとその印に口づけて、そのまま。そのまま頬に指を這わせ、肌の感触を確かめた。
「…誤魔化すことは無意味だな…お前の前では全部……」
言葉にしなくても全てがきっと伝わっている気がする。けれども自分自身を護るためだけに最期の一言を告げないでいる。それはどんなに卑怯な事なのか。
「…それでも俺は……」
好きだと一言告げれば、愛しているんだと心の奥の想いを曝け出せば、どんなに楽になれるのか。全てを捨ててその腕に飛び込んでいけたならば、どんなに。それでも。それ、でも。
「…俺にとって…ミカヤは……」
生まれて初めてのぬくもりを、ちっぽけなこの命に差し伸べてくれた手を、ともに生きてゆくと約束した指先を、離すことは出来ないから。どうしても離す事が、出来ないから。
もう一度印に触れて、そのまま唇を落とす。ミカヤと同じで、違うもの。どちらも自分にとっては、大切なものだった。
「…どうしても…離れられない相手だから……」
何時までこうして抱き合っていられるのか、考えようとして思考を止めた。考えるだけ無駄なような気がして。もうきっとどうにもならないのだろうから。きっとどうする事も出来ないから。
もう一度髪に触れたくて手を伸ばす。けれどもその手のささやかな願いは叶う事はなかった。力強いその腕に掴まれてしまったせいで。触れる前に、引き寄せられた腕のせいで。
「―――起きていたのか?何時から?」
呟きは聴かれたくなかったのか、それとも聴いて欲しかったのか、自分には分からなかった。ただ好きだと言葉にしなかった事だけが、それだけが自分にとっての救いだった。
「ここに唇が落ちてきた時から」
掴まれた手のひらが、額の印に重なる。そこから広がるぬくもりが、どうしようもないほどに愛しいと思った。
「こんな時にまでお前は『ミカヤ』を思うんだな」
「…ソーンバルケ……」
掴まれていた腕が離され、そのままきつく抱きしめられた。微かに薫る汗の匂いに包まれる瞬間がいつも。いつも、自分を現実から隔離してゆく。このままこの腕で埋もれてしまいたいと願うほどに。
「…それが許せないと思うほどに…私はお前を求めているのに…お前は決して答えはしない……」
言葉とは裏腹に髪を撫でる指先は優しくて、降り積もる声は穏やかで。何処までが真実でも何処までが嘘なの?
「それでも私がお前を離したくないのだから、どうしようもないな」
重なる唇の熱さかだけが、真実だったらいいのに。何もかも嘘で、重なり合う身体だけが本当の事だったらいいのに。そうしたらもう。もう何も考えなくていいから。それでもきっと。きっと、思考よりも先に心が求めるのだろう。お前だけを求めてしまうのだろう。


――――幸せを願うのはミカヤただ一人だけど、欲しくてたまらないのはお前だけだ。


繋がった手のひらを、離す事は出来ない。結ばれた指先は、ずっと。
「…私が砂漠へ帰る時、お前はこの手を離すのだろう?…」
ずっと、繋がっていなければならない。それをミカヤが願う以上。
「…お前が…離さなければいい…どんなになっても…そうすれば……」
俺にとっての選択肢は一つしかない。だって。だって、お前は。
「―――そうすれば私の元へと来るか?…私のものになるか?……」
俺がこの手を離したとしても、きっと。俺をまた見つけてくれるだろう?
「お前が…逃げ場所すら、俺から奪ってくれたら……」
俺が何処にいても俺がどんな場所にいてもお前は。お前は、俺を。


「…我が儘だな、お前は…でも何時か私はそのお前の身勝手な我が儘を、叶えるのだろうな……」



初めはどちらも離せないから、このまま引き裂かれたいと願った。どちらも選べないから、このまま。このまま立ち止まるしかないと思っていた。けれども。けれども、分かったから。お前は俺がこの手を離したとしても。離してもまた…見つけ出してくれるのだと。
「…俺はここで、ミカヤとともに生きてゆく。デインの王として生きてゆくあいつを支えながら生きてゆく」
ミカヤが言ったから。俺が必要だと言ったから。だから俺はこの場から離れない。離れる事が出来ない。それは俺が幼いころからずっと。ずっと、決めてきた事。どんな時でもどんな瞬間でもミカヤのそばにいること。あいつを支えてゆく事。
「―――それでも…そんな俺をお前は、奪っていってくれるの?」
綺麗な道なんて、いらないけれど。正しいことなんて、欲しくないけれど。それでも、そうやって生きてゆく事を決めてしまっているから。幼い日、あの手を取ったその瞬間から。それでも、それすらも…奪っていってくれるの?
「…サザ……」
「俺の決意すら、お前は無意味にしてくれるの?」
出来ないよな。お前には、出来ない。分かっている。だから好きなんだ。だから…どうしようもないほどに俺はお前を好きなんだ。そんなお前の残酷な優しさを、俺はどうしようもない程に愛しているんだ。
「―――サザ……」
呼ばれた名前の響きが苦しくて、耐えきれずに瞼を閉じた。そうすれば落ちてくるのは優しいキス。瞼に降ってくる、切ないキス。優しすぎて、苦しい想いの雨。
「…お前がそれを…望むのならば……」
ただ一つの事だけがどうしても出来なかった。どうしても、出来ない事だった。それは嫌というほどに、分かっている事だから。
「…いや望んでいても…奪えないのは…私のエゴだな……」
きつく抱きしめられて、貪るように口づけられる。切なさと痛みが全身を貫いて、このまま。このまま、引き裂かれてしまえたらと思った。このまま全部。全部、壊してしまえたらと…思った。



―――― 一番最期にある硝子の壁だけがどうしても砕けない。こんなにも。こんなにも、全てが透けて見えているのに。全部、剥き出しになっているのに。


最初はその強い絆を引き千切ってしまおうかと思った。このまま全てを壊しても私はお前を奪ってゆこうかと思った。けれどもそれは…出来なかった。
『―――私の…そばにいて……』
彼女のその言葉にお前自身が答えたから。その手を迷うことなくお前が取ったから。だから、私は。
戻れない事は互いに分かっていた。離れられない事も、嫌というほどに理解している。それでもお前は彼女の手を取った。その理由も分かっている。―――互いの気持ちがもうどうにもならない場所にまで…辿り着いてしまったからだ。
お前が彼女を選ぼうとも。私が砂漠へ帰ろうとも。どんなに物理的に引き離しても、どうやっても離れられないと分かってしまったから。


――――硝子の壁を砕いて、傷だらけになってもお前を抱いていられたならば……



重なった唇から溢れるのは、激しい想い。どうしようもない程の熱。
「…ソーン………」
もう名前を呼ぶしか出来なかった。それ以外の言葉はもう思いつかない。
「…サザ…愛しているよ……」
思いつかない。考えられない。もう何も分からない。もう、何も。
「…愛している……」
伝わる体温と、お前の匂いと、囁かれる言葉だけが全てだった。




このまま。今はこのままで、と…ただそれだけを、願う事しか出来なかった……