全てのものから目を逸らさずに、今ここにある現実と向き合った時。一番最期に残るものは、一体何なのだろうか?
―――想いを声にした時、その瞬間にきっと全てが終わる。
本当はずっと告げたかった。言葉にしたかった。
ただ一言だけ、お前の瞳を見て…言いたかった。
気が付けば随分と遠い場所に来ていた。戻ろうとしても道が分からないほどに。それほどまでに時は加速し、以前の自分のかけらすら何処にも見当たらなくなる程に。振り返る事も出来ず、立ち止まる事も出来ず、ただ進むしかない日々。進んで、ずっと前に進んだら…振り返った先に在る筈のものが、何処にもなかった。
「―――私はあの頃よりも、強くなれましたか?」
きっと何処かで、気付いていた。このひとが私の前に現れた瞬間から、きっと。きっと私が見失った指先の在処はそこに在るのだという事を。
「私はずっとお前は強い存在だとそう思っている。初めて出逢った時から、ずっと」
どうしてという疑問は初めから私にはなかった。何時かこんな日が来る事は心の何処かで分かっていたから。私が貴方の全てになれなかった以上、その手を掴む相手が別に現れるのだという事は。
「サザと比較して、ですか?」
「その比較に意味はない。お前は自分の宿命から逃げなかった、だから強いとそう言っただけだ」
見上げた先にある瞳は全てを見透かすようで、けれども何も見せてはくれなかった。少しでも感情が見えたらと願った私は、まだ少しだけ淋しいのかもしれない。
「ありがとうございます。貴方がそう言ってくれると、少し自分に自信が持てます。これからも私は…強くならなければならないから」
進むべき道を選んだのは私だ。加速する流れの中でもがきながらも、それでも選んだのは私自身なのだから。
「お前にはサザがいる。あいつはお前の手を取った。デインの王として生きてゆくお前を、ずっと支えてゆくと」
逸らされる事もなく、顔色一つ変えることなく、それが事実だとそう告げるこの人の強さが私には羨ましかった。その強さこそが、揺るぐ事のない絆の証だったから。
「…貴方は、それでいいのですか?……」
私がただひとつなれなかったものがある。貴方の初めての相手は全てが私だったけれど、ただひとつのものだけがどうしてもなれなかった。それこそが、今ここにある絆だった。
ずっとふたりで生きてきた。水の中に眠る深海魚のように、ずっとふたりだけの世界に生きてきた。それは暖かく優しいものだったから、だから。だからずっとこのままでいたいと願うようになっていた。それが叶わない事だと知りながら。もう少し、もう少しと、願わずにはいられなかった。
――――指の形がこんなにも違うのに。あの頃とは全然違うのに。
夢は終わる。目覚めなければならない。それは分かっていた事だった。分かっていたのに、私は心地よさに身を委ね、瞼を開く事を拒絶していた。もう少し、もう少しと。
「いいも何も、あいつが決めた事だ。それをどうこう言う権利は私にはない」
枯れ木のような貴方の手は、何時しか私を包み込む程の逞しいものへと変化していた。そしてその手が必死になって掴もうとしているものが、今ここにあって。その事を知りながら、私は貴方のもう一方の手を…掴んでいる。
「私から奪おうとはしないのですか?」
私が貴方の恋人になれればよかった。私が貴方の全てになれればよかった。そうすればこんな風に貴方を苦しめはしなかったのに。けれども、それだけはどうしても出来なかった。
「―――私を悪人にする気かい?」
穏やかに微笑うその顔の裏の真意を、私は知っている。そう私は、知っている。それこそが何よりも私が怯え、そして何よりも望んだものだから。そうだ、私が何よりも…願ったものだから。
「…奪ってくれれば、私はまだ優しい夢の中にまどろんでいられたのに…それすらも赦してくれないのですね…」
貴方をずっと愛しているけれど、恋にはならなかった。何よりも大切に思っているから、壊したくはなかった。ずっとこのままでと願うあまりに、私はその先に在るものを求めようとはしなかった。
――――貴方がずっと孤独で淋しかったから、優しいものしか注ぎたくなかった。
貴方が望む無償の愛を、私も望んだ。全てのものを包み込む優しさと、互いを支え合う強さを願った。ひたすら綺麗で優しい想いだけで、ふたりの手のひらは包まれていた。
「それこそが、お前が唯一あいつに与えなかったものだ」
身を焦がす程の激しい想い。目眩すら覚えるどうしようもない独占欲。恋焦がれ狂わされる程の衝動。そう、私は与えなかった。私は望まなかった。ずっと独りだった私にとって、その想いはあまりにも苦しい。そして貴方にとってもそれを私に対して望まなかった。傷つき擦り切れた魂はただひたすらに。ひたすらに優しく暖かいものだけを求めた。
「…そして…何よりも私が望んでいる……」
「――――っ!」
「ミカヤ、私はお前が思っているよりもずっとあいつを愛しているんだ。それこそどうしようもない程にね」
初めて見たその顔こそが、それこそが私が貴方に与えられなかったものだった。そして私はこの瞬間、ずっと閉じていた瞼を開いて夢から目覚めた。長く暖かい、けれども何処か淋しい夢の中から。
――――奪われることだけを夢見る子供ではもういられない。もう、いられない。
私という『枷』を乗り越えることこそが大人になることならば、ずっと子供のままでいて欲しいと願ってしまった。それが単なるエゴでしかなくても。
「…淋しいなんて言ったら…貴方は呆れますか?」
欲しいものはどんな事をしても手離してはいけないんだと、私は教える前に与えて注いでしまった。ただ願うだけではいけないんだと、望むだけでは駄目なんだと。
「―――いや、お前はずっとあいつにとっての唯一の相手だった。お前にとっても…そうだったのだろう?」
選択肢を私は与えなかった。貴方に迷いを与えなかった。乗り越えなければならないものがあるのだと、選ばなければならないものがあるのだと、それを教えなかった。
「…それでも私は恋人にはなれなかった…こんなにもお互いが大事なのに…大切すぎて…壊せなかった……」
護る事だけを教えたから、貴方は壊し方が分からなくなってしまった。与える事だけを教えたから、奪う事が分からなくなってしまった。だから、貴方は私を選ぶ。この手を、離さない。
「…壊してください…あの子を…サザを……」
私から離しても意味がない。貴方が奪われても意味がない。大切なことはただひとつ。ただひとつ、貴方自身が奪い取ること。
――――本当に欲しいものがあるのならば、絶対に。絶対にその手を離してはいけない。
欲しいものはただひとつ。ただ、ひとつだけだ。
「あいつがどんなになってもいいのか?」
私が欲しいものは、ただひとつ。お前が欲しい。
「…どんなになっても…貴方はサザを離さないでしょう?…」
ずっとそれだけだ。それだけなんだ、サザ。
「…そしてそれこそが……」
だからお前自身の意思で、私の手を取ってくれ。
「…ひとを愛するという事なのでしょう?……」
優しい夢から覚めて見た世界は私が思っていたよりも、ずっと。ずっと、穏やかで静かだった。淋しさの破片はまだ私の周りを彷徨っているけれど。それもきっと。きっと何時か、消えてゆくのだろう。そっと静かに、消えてゆくのだろう。