ずっと深い水底で眠っていられれば良かった。目覚めなければ、良かった。そうすれば傷つくことも怯える事も、壊れる事もなかった。けれども。けれども、その手は強引に引き上げた。深い海の底から、この腕を。
――――内側から目覚めてしまったこの気持ちの名前を知った時、もう何処にも戻れなくなっていた。何処にも、戻りたくなかった……。
四角く区切られた空間から覗く月明かりがひどく綺麗で、少しだけ目が奪われた。けれども次の瞬間、耳に降ってきた声ですぐに視線は元の位置に戻される。
「…サザ、私は強くなれたかしら?…」
見上げてくる瞳をずっと、見ていた。俺の記憶の始まりはこの瞳からだった。幼かった俺の手を取ってくれたその日から。
「強いよ。ミカヤはずっと」
この手を取る以前の自分を思い出せないほど、俺の記憶は彼女で埋められていた。ずっとそうだった。ずっとそうだと…思っていた。思っていたのに。
「それでもサザは私の手を取ってくれた。私を護ると言ってくれた」
何時しかそれ以上のものが俺の記憶を埋めてゆく。違う記憶なんてものじゃない、これは。これは俺が覚えた感触で、そして感覚だ。思い出すという行為すら無意味な程、俺自身に刻まれてしまった想い。ただひとつの消したくても消せない、渇望。
「それは私がまだサザにとって弱いと思えるから?」
「違うミカヤ。俺は、そんな事を思った事は一度もない。俺にとってミカヤはただひとりの『家族』だから」
大切な家族。ただひとり護りたいと願う相手。その気持ちに嘘は何一つない。なのにどうしても消えない後ろめたさと、全てを肯定出来ない戸惑いがある。その原因を痛いほどに分かっていても、どうする事も出来ない自分が今ここにいる。
「ありがとう、サザ。ありがとう…でも……」
頬に手が伸ばされる。その手はとても暖かい。暖かくて優しい。このぬくもりに包まれていれば怖いものは何もなかった筈なのに。この指先さえ繋がっていれば、世界は全て優しいものだったのに。それなのに、どうして俺は…。
「…でも…貴方は違う選択肢を選んで…いいのよ……」
見上げてくる瞳が綺麗で、自分を見つめる瞳が綺麗過ぎて、どうしてだろう?俺はひどく泣きたくなった。声を上げて、泣きたくなった。
――――次は、何時逢える?そんな言葉を俺から告げる事は出来なかった。砂漠に帰ると言ったお前を引きとめる権利は俺にはない。ミカヤの手を取った俺にその権利はない。
『サザ、次なんて言葉は言わない。けれども』
もしかしたらこれが最期なのかもしれない。そんな事を思ってみても無駄だと気付いたから止めた。どうやっても心がお前を求めてしまう限り、最期なんて言葉は無意味だから。
『けれども、お前から私を…願ってくれ……』
貫かれる視線の強さが、苦しい程に俺を満たしてゆく。このままばらばらになってしまいたいと願うほどに。このまま壊れてしまいたいと願うほどに。
『…私を…求めてくれ……』
きつく抱きしめられる腕の強さに目眩すら覚える。微かに薫る体臭はもう…もう俺の身体に染みついて消えない。ずっと、消えないから。
――――もう何処を千切っても、俺からお前を消すことは出来ないから……
永遠なんて何処にもないと、お前を好きだと気付いた瞬間に理解した。あんなに誓った想いすら、簡単に壊れてしまう程の想いがあるのだという事を。
「…ミカヤ…何言って……」
こんなにも大切なのに。こんなにも大事なのに。二人で積み上げてきた日々は、こんなにも。こんなにもたくさん溢れているのに。それなのに。
「―――私はサザが違う答えを私にくれると思っていた。それなのに…貴方はこの手を取った……」
「当たり前だ。俺にとってはミカヤが何よりも大事なのだから」
それなのにどうして。どうして、それ以上の想いがここにあるの?積み上げてきた日々すら、越えてしまう気持ちがどうしてここに存在するの?
「…サザ…私を好き?……」
「好きだ、ミカヤ。好きだよ」
「―――じゃあ、私を愛している?」
全てを越えてしまった想い。自分自身ですらどうにも出来なくなってしまった想い。それが今。今ここに、ある。この胸の中に、在る。
「…ミカヤ……」
「愛しているのなら躊躇わずに答えられるでしょう?サザ…それが答えなのよ」
ただひとつの想いが俺を蝕み飲み込んでゆく。そして俺を何処にも戻れない場所へと、連れてゆく。
「―――このまま私の手を取って生きるというのならば…私以外の事は何も考えないで」
その顔はひどく綺麗で、そして。そして俺の知っているミカヤとは別人のようだった。まるで知らない誰かのようだった。俺の知らない、ミカヤ。ずっとそばにいて誰よりも理解していると思っていた俺が知らない彼女。それは。それは……。
「…ミカヤ…何で今…そんな事を俺に言うんだ……」
それは俺も同じだ。ミカヤに全てを見せるといいながら、胸にあるこの想いを必死になって隠している。漏れないように、零れてしまわないようにと。ミカヤに見せられない醜い自分は、別の相手に見せている。弱くて小さくて醜い俺は。
「私はずっとこのままでいたかった。けれどもそれが許されない事は誰よりも…誰よりも私が知っていた……」
頬に掛かる手が微かに震えている。けれどもそこに『弱さ』はなかった。支える腕も必要としなかった。言葉として俺に注がれるものはとても強いもの、だった。
「そう私が誰よりも知っていた…誰よりも私が一番サザのそばにいたのだからっ!」
「―――ミカヤ……」
「ずっとそばにいた。ずっと一緒にいた。ずっと優しい関係で…ずっと家族で…そんな日々が続けばいいって…私は…っ……」
抱きしめようとして手を伸ばそうとした腕が、そのまま。そのまま宙に浮いたままだった。抱きしめられなかった。抱きしめる事が、出来なかった。迷わず伸ばさなければならない手は、そのまま。そのままただ宙を彷徨うだけだった。
気持ちは同じだった。ずっと同じだった。
「…独りだったから…ずっと独りだったから……」
互いに望んだものは、互いに与えたものは、同じだった。
「…だから、優しいものだけで埋めたくて……」
ふたりが結んだ絆は。ふたりが積み上げてきたものは。
「…バカね…こんな日が来る事は分かっていたのに……」
鏡のように向き合っていたから、見えたものは己の姿だった。
「サザ、貴方から私の手を離して。そうしなければ、意味はない」
俺の最初の記憶。一番初めの記憶はその手だった。ずっと変わらない手。優しくて暖かい、その手。差し出された手のひらのぬくもりが、生まれて初めて俺が覚えたものだった。
「…ミカヤ…俺は……」
その手がずっと。ずっと俺の手のひらに結ばれていた。どんな時でもどんな瞬間でも、優しく結ばれていた手。そこにあるものはとても綺麗で大事なものだったから、壊したくなくて必死に護っていた。自分自身が持ってしまった穢れからすらも。
「…離して…サザ…もう私が貴方に出来る事はこれしかないの……」
どうして俺は。俺はミカヤ以外の存在を心に刻んでしまったのだろう?どうしてミカヤ以外の存在に全てを奪われてしまったのだろう?どうして俺は…こんなにもお前を好きになってしまったのだろう?こんな事になるまで、こんな風にミカヤを…大切な人を泣かせてまで……。
「…俺は…俺は…ミカヤ……」
視界が歪んで、ミカヤの顔が見られない。けれども今どんな顔をしているのか分かる。だって。だって俺たちはまるで鏡のように互いに向き合ってきたから。同じ想いを共有してきたから。だから、分かる。今二人がどうしようもない気持ちで、泣くしか出来ない事も。
「…ミカヤ…俺は…っ!……」
声を上げて、泣いた。子供みたいに、泣いた。子供の頃はこんな風に泣けなかったのに、俺はこんな時になって初めて声を上げて泣いた。ふたりで、泣いた。
サザ、私の大切なサザ。それはずっと。ずっと変わらない。この想いは貴方も変わらない。ふたりで大事に護ってきたものはずっとここにあるの。ずっと、ふたりの中にあるの。
けれども貴方が見つけてきたものは。貴方が今持っているものは、ふたりの中にはないものだから。私と貴方の場所にはないものだから。だから、いいの。貴方はそれを求めても、いいの。私たちの中にないものだから、それが存在する場所へと。
――――人を愛するという事は綺麗な想いだけじゃ…ないのだから……
「…ミカヤ…好きだ……」
ええ、その言葉に嘘はない。嘘は何も、ない。
「…私も好きよ…サザ…大好きよ……」
でも好きと簡単に言葉に出来ない想いがある。
「…大好きよ…サザ……」
言葉にする事すら、胸が震える気持ちがある。
貴方の心に生まれた気持ちを、私は知っている。その想いの名前を、知っている。
こんなにもミカヤが大事で、こんなにも護りたいと願うのに。それ以上の想いが、俺を。俺を違う場所へと連れてゆく。もう戻れない場所へと。
「…ミカヤ……」
名前を呼べば何時ものように俺を見つめてくる瞳が濡れている。誰よりも護りたいとそう願う相手を、泣かせたのは他でもない俺自身。俺自身が、壊した。
「…さようなら…ミカヤ……」
大切な人を泣かせてまでも、欲しいものがある。諦める事が出来ない気持ちがある。全てを傷つけても、全てを失っても、俺は。
「…うん、サザ…それでいいの…それでいいのよ……」
俺はお前を、愛している。どうしようもない程に、お前を愛しているんだ。
「…さようなら…サザ……」
これが永遠の別れではないけれど。ふたりの絆も積み重ねた日々も決して消える事はないけれど。それでもさよならだった。優しく穏やかな日々からのさよならだった。子供だった日々からの…さようならだった。