声に出して、叫んだ。ただひとつの想いを、声にした。それしかなかった。それしか、ない。今この瞬間になってやっと気付いた。最初から…手のひらの中に在ったものは、これだけなんだって。
『…好きなんだ…お前が…俺は……』
――――身体から零れてくるものはただずっと。ずっと切ない想いだけで。切なくて苦しいから、その全てを壊してしまえたら楽になれると分かっているのに。分かっていても壊せなかった。崩せなかった、手離せなかった。それこそが『答え』だったのに、どうして。どうしてその事から目を反らしていたのだろうか?
…好きだった。ずっと、好きだった。お前だけが、好きだった。お前だけを…愛している……。
どのくらいの距離を歩いてきたのか、もうサザには分からなくなっていた。確認する事よりも先に心が急かされて、歩みを進める事以外出来なかった。今はもう何も考えられなかった、ただひとつの事以外。
「…ソーンバルケ……」
唇が零れた名前の意味を、考えるよりも先に感じる。思考よりも心が反応する。もう他には何も考えられなかった。考える事が出来なかった。こんなにも気持ちは溢れて、そして零れているのにどうして。どうして、自分はこんなにも遠回りをしていたのか?こんなにも答えは簡単だったのに、どうして。どうして自分はここまでしなければ、辿りつけなかったのか?
「―――ちゃんと言うから…お前に言うから……」
ずっと封印していた言葉がある。心では何度も、何度も告げていた言葉。けれども声に出す事だけがどうしても出来なかった言葉。声にした瞬間に全てが壊れてしまうような気がして、どうしても伝える事が出来なかった言葉。でも、今は。
「…お前に言うから…聴いてくれ……」
聴いてほしい。どうなってもいいから。壊れてもいいから。全てを失ってもいいから。ただ聴いてほしい。この気持ちを、この想いを、この先に何も残らなくてもいいから。何もかもを失くしてしまってもいいから。――――だから、聴いてください。
自分の初めての記憶は、綺麗な細い指だった。その指先に幼い手は絡め取られ、その手に導かれ生きてきた。自分の『生きている』という記憶の始まりはミカヤだった。だから自分の記憶の終わりも、全ての最後の瞬間もその手に繋がっているものだと思っていた。ミカヤの為に生きて、ミカヤの為に死ぬ。それが自分の生まれてきた意味だと思っていた。けれども。
『…お前はお前だけのものだよ、サザ。他の誰のものでもないお前だけのものだよ』
俺は俺でしかなくて。俺の心は俺だけのもので。俺の命も俺だけのものだった。そんな事本当は初めから分かっていたのに、その事実を必死になって目を反らしていた。自分自身の心の裏切りに耐えきれず、ミカヤを護ると言う言葉を盾にして結局護っていたのは自分自身だった。心が誓いを裏切ってゆくのに耐えきれず、それを引き止める為に真実から必死になって目を反らしていた。
『サザ、貴方から私の手を離して。そうしなければ、意味はない』
けれども結局。結局どうやっても自分の想いが消せない以上、それは無意味な行為でしかなかった。無意味で愚かな行為でしかなかった。そうやって、傷つけた。誰よりも一番傷つけたくないと願った相手を、自分自身が一番傷つけていた。
ミカヤを護るという想いこそが、その願いこそがミカヤを傷つけていた事に気付けなかった。本当はもっと違うものを彼女は望んでいたのに。もっと違うものを俺に願っていてくれたのに。
『…うん、サザ…それでいいの…それでいいのよ……』
泣きながら微笑うその顔を見て、やっと気付く事が出来た。やっと理解する事が出来た。ミカヤが俺に望んでいた事を、俺に対して願っていたくれた事を。この指先を、俺から離すこと。俺がミカヤから、離れる事―――俺自身の意思で。
俺はずっと理由をつけなければ生きられなかった。説明をつける事でしか、生きてゆく術を知らなかった。そうやって何かに縛られなければ、生きてゆく意味を見つけられなかった。意味すら理由すら無意味な場所で、どうしようもない想いがあるという事を知っても、それでも必死になってその価値観にしがみ付いていた。それ以外の生き方を知らなかったから。そうやって、自分自身を護る事しか出来なかった。でも今は。
『けれども、お前から私を…願ってくれ……』
願う、俺はお前を願う。壊れてもいい。全てを壊してもいい。今までの自分自身がなくなってもいい。そうだ、初めから答えは一つしかなかったんだ。そう、ひとつだけ。俺がお前を好きだと言うことだけ。その想いの前では何もかもが無意味だった。全てが、無意味だった。今まで積み上げてきた生き方も、築き上げてきた価値観も全部。全部、無意味なものになる。だってそこには理由も意味もない。ただ想いだけがあるだけだ。剥き出しになった想いが、あるだけだから。ただひとつの想いが、在るだけなのだから。
――――声にして、言葉にして、そして伝えたい。ただひとつの想いを、伝えたいから。
見上げた空はすでに深い闇に覆われていた。昼とは比べものにならない寒さがサザの身体を襲う。けれども歩みを止める事はなかった。止めようとは思わなかった。一歩一歩、前へと進んでゆく。
この砂漠に足を踏み入れるのは何度目だろうかとふと思う。一度目は団長とともに戦った時、あの日初めてソーンバルケに出逢った。二度目は世界が静寂に包まれた時、ミカヤとともに足を踏み入れ再び彼に巡り合った。そして三度目、今度はこうして自分から彼に逢う為にここに来ている。自分の意思でここに来ている。
口から零れる息は白く、歩みを進めるつま先はひんやりと冷たい。砂漠の夜は人間にとってとても厳しい場所だった。けれども自分はこんな場所よりももっと厳しい場所を知っていた筈だ。幼い身で、経験していた筈だ。けれどもその記憶はずっと遠い場所にある。差し出されたミカヤの細い指先によって。それ以前の記憶は、暖かい手のひらのぬくもりでかき消されていった。そして今は。その暖かいぬくもりよりも、もっと激しい熱さを持った指先だけが全てになる。この身体の全てを知っている、あの指先だけになる。
「―――お前の『国』はまだ…遠いのかな?……」
オアシスを発見した所でやっとサザは歩みを止めた。そこに腰を降ろし、野営の準備をする。火を焚き布団を被り、疲れた身体をその場に横たえさせた…。
夢を、見た。それはひどく優しくて、ひどく切なくて。そしてひどく苦しくて。目覚めた瞬間に、ただ泣きたくなった。どうしようもなく泣きたくなった。
――――声を上げて泣いたら、楽になれるのかな?もう、苦しまなくて…いいのかな?
冷たい剥き出しの道の上で身体を丸めて眠る事しか出来なかった。日々の食べ物を盗むのが精いっぱいで、それ以外の事をする気力すらなかった。空っぽの瞳で空を見上げても何も感じない。ぬくもりを知らない手は、他人の暖かさを知らない。生きているのと呼吸をしているとの違いが分からない。何時壊れても、何時途切れても、誰も気付かないちっぽけな命。がりがりに痩せた手では、何も掴む事が出来ない。幸せなんて言葉の意味を知らないまま、ゴミのように捨てられた子供。世界の片隅に置き去りにされた薄汚い子供。そんな無力な自分に一体何が出来た?何を掴む事が出来た?
――――掴む事が出来たのは、ただひとつの手。差し出されたただひとつの指先。
その手を掴む事しか出来なかった。掴むことで記憶が始まり、世界が始まった。その手に導かれる事で初めて、空っぽの瞳にモノを映し出す事が出来た。けれども。それでも、満たされなかった。優しいものは与えられた、暖かいものは得る事が出来た。けれども、どうして?どうして、一番最期の心の破片が埋められないの?
与えられたものは今まで知らなかったもの。その優しさで全てを満たしたから気付いてしまった。生まれてしまった。自分から『望む』ことを。欲しいと思う気持ちを、手に入れたいと思うものを。生まれて初めて自分自身が欲しいと願ったもの。
――――お前が欲しいと…お前だけが欲しいんだと……
剥き出しの欲望は何時しか自らの全てを飲み込んでいった。飲み込んでそして、今まで知らなかった場所へと連れてゆく。もう何処にも戻れない場所へと。そこは剥き出しの冷たい地面とも違う、暖かい優しいぬくもりとも違う、そこは…。
空っぽの瞳の小汚いガキが立っている。それは幼い頃の自分だった。
『…俺は…欲しい……』
その瞳に少しずつ光が灯ってゆく。意思が生まれる。
『…欲しいんだ…お前が……』
心が生まれる。想いが生まれる。欲望が生まれる。そして。
『…ソーンバルケ…お前が…お前だけが…欲しい……』
小汚いガキは、生身の人間になった。想いも欲望も剥き出しのただの人間になっていた。
「…俺は…お前だけが…欲しいんだ……」
何処までが夢で、何処からかが現実かはもう分からなかった。何処が境界線なのか曖昧になって、そして。そして全ての記憶が入り混じってぐちゃぐちゃになって、最後に残ったものはその言葉だけだった。
「―――それがお前の本当の想いか?」
うん、そうだよ。それが俺の本心だ。醜くてどうしようもない俺の一番奥の心だ。どんな綺麗事で誤魔化しても、最後に残るものはこんなどうしようもない感情だけなんだ。それだけなんだ。
「欲しいんだ、ソーンバルケ…俺はお前の全部が欲しいんだ」
凍えた指先が触れた感触は暖かい。それは優しいぬくもりとは違うもの。でもその熱さこそが、俺が何よりも欲しかったものだ。何よりも願ったものだ。
「…この髪もこの瞳もこの指もこの声もこの手のひらも…全部俺だけのものにしたい……」
欲しい、全部欲しい。お前と名のつくものは全部俺だけのものにしたい。何もかもが欲しい。全部、全部、欲しい。
「私の全てが欲しいのならば、お前の全てを私にくれ…サザ……」
そんなもの幾らでも。幾らでもあげる。こんなに醜い欲望まみれの俺でよかったら。こんな俺でよかったら幾らでも上げる。だから、だから、お前を全部…全部俺にください……。
空っぽの瞳に与えられた優しさで俺は満たされ、自分という『個』の存在は埋められた。そこで初めて自分の意思で歩んだ時、お前が居た。お前がいたから、優しさで埋められた瞳は別のものを映し出した。もっと深く醜く、けれども一番人間の本質を現わしているその想いを…映し出していた。
――――知っている。俺はその映し出した想いの名前を知っている……
知っている。ずっと閉じ込めてきた言葉だ。ずっと心に封印してきた言葉。それを告げた瞬間に全てが終わるんだと、そう全てが終わると。でももういいんだ。もう、いいんだ。全てが終わっても、全てが壊れても、何もかもが失われても…いいんだ。だって残るから。ただひとつのものが俺に残るから。それがこの気持ちだ。それがこの想いだ。そうだよ初めから、俺はただ一つのものしか持っていなかったんだ。俺自身が持っている唯一のものはこれだけだったんだ。誰の為でもない俺自身が持っていたものは、これだけなんだ。
「…やるよ…俺なんていくらでもあげる…だって俺は…お前が…好きなんだ……」
これしかない。これしかないんだ。
「…好きだ…ソーンバルケ……」
俺が持っているものはこれだけなんだ。
「…お前が好きだ…好きだ……」
この気持ちだけが、俺の全部だ。
何処までが夢で、何処までが現実なのか、俺には分からなかった。ただ告げた言葉は確かに俺の喉をすり抜け声として地上に落ちた。言葉として、想いは生まれた。
生まれた想いを受け止めてくれる腕があった。きつく抱きしめる腕がある。だからもう、どちらでも良かった。これが夢でも現実でも、どちらでもいい。お前がここにいてくれるのならば。
「…好きだ…ソーンバルケ…ずっと俺は…お前だけが好きだった……」
お前がいてくれればいい。他にはもう何もいらない。いらないから、だから聴いて。俺の剥き出しの想いを聴いて。ずっと喉の奥に閉じ込めていた言葉を聴いて。
「…初めて逢った時からずっと…お前に逢って初めて俺は知ったんだ…自分の醜さを…自分の穢たなさも…でもそれ以上に……」
「――――」
「…俺は知る事が出来た…人を愛するという事を…このどうにもならない想いの名前を…こんなに苦しくて、こんなにどうしようもないのに…こんなにも…こんなにも満たされる想いを……」
頬に触れる指の感触がもしも夢だったならば、俺は知らない。こんなにも優しい夢を、こんなにも暖かい夢を。俺は、知らない。だから、告げさせて。だから、伝えさせて。
「…愛している…ソーンバルケ……」
初めは膝を抱えて丸まって眠る姿がひどく哀れに見えたから、手を差し出した。丸まらずに眠る方法を教えたくて。けれども気付けばその腕を背中に廻させていた。廻させて、唇を奪っていた。伝わる体温から零れる淋しさが、私を捕えて離さなくなった。無意識に腕の中で微笑うその顔を見たらどうしようもない愛しさが込み上げてきた。そこから重なった視線の先に見えた瞳の歪さの理由に気付いた時…何よりも大切な存在だと自覚した。
「―――もっと言ってくれ…もっと……」
自覚したらもう手離せなくなった。愛しさは愛になり欲望になった。その全てが欲しいと、その全てを奪いたいと、自分でも驚くほどの想いが湧き上がっていた。
「…愛している…お前だけを…愛している……」
お前の髪の匂いも、お前の濡れた瞳も、お前の冷たい指先も、その全てを知っているのは私だけ。私だけ、だ。
「…愛している…ソーンバルケ…愛している……」
頬から零れる雫も、唇から落ちてくる言葉も、全部私のものだ。私だけのものだ。誰にも渡さない。誰にも渡しはしない。
「…愛している…ずっと…ずっと、ずっと……」
「―――ああ、サザ…私も…私も愛している…お前だけを…愛している……」
抱きしめた。息すら奪うほどの強さでお前を抱きしめる。これが夢ではないんだと確認する為に。確かにお前はここにいて、私にその言葉を告げてくれているんだと。愛していると、告げてくれているんだと。
「…愛している……」
言葉が、重なる。想いが、重なる。そして、重ねた。唇を、重ねた。そこから伝わる熱が、夢ではないんだと告げてくれた。
――――包まれる腕の熱さと強さが、伝えてくれた。これは夢ではないんだと。夢じゃ、ないんだと。