きっと、初めから。初めから願いはひとつだけだった。ひとつだけ、だった。
そこにある全てのものを拒絶するように見えない壁を作りながらも、見上げてくる翠色の瞳の先が微かに綻んでいた。そこから零れてくるものが、ただひたすら。ただひたすらに哀れに見えたから、哀しく見えたから。だから振り返った。だから視線を合わせた。前に立ちその微かな隙間から覗くものを見つめて、それを確かめようとして手を伸ばしたら。手を、伸ばしたら――――
『…お前が…俺を…壊すんだ……』
優しく指を絡め合わせていたら、もしかしたらもっと。もっと穏やかな水の中に包まれていたのかもしれない。けれどもその手は必死に掴んできたから。だから、ふたりで飲まれた。激しいうねりの中に身を任せ、そのまま。そのまま激流へと身を埋めた。ふたりで、溺れた。
――――他には何もいらない。欲しいのはお前だけ…お前だけが…欲しいんだ……
抱きしめた身体はひんやりと冷たかった。幾らたき火で暖を取ろうとも、砂漠の夜は容赦なかった。それでもこうして抱きしめれば、布越しに体温は伝わる。伝わって、ゆっくりと腕の中の身体には熱が灯された。
「―――サザ……」
名前を、呼ぶ。囁くようにその名を呼ぶ。声が届かなくても構わなかった。この地上にその名が零れれば。
「…やっと…お前から……」
閉じた瞼の先にある顔はまだ何処か幼さを残していた。瞼を開いている時とは少しだけ印象が違う。彼を大人びて見せるものがあの翠色の瞳ならば、それはきっとあの不安定な色彩から来るものだろう。全てを拒絶しながらも、それでも求めてやまない翠色の瞳。
「…私を…求めてくれるのだな……」
最後の壁を壊して、一番最期の硝子を砕いて、やっと。やっとこうして全てが剥き出しになった。心の咎も楔も全てを捨てて剥き出しになって。
「…サザ……」
やっと、手に入れた。一番奥にある最期の場所を。やっと全てを、手に入れた。その全てを。
「――――もうお前を私は離さない……」
意識のない冷たい唇をそっと塞ぐ。そこから分け合う熱を、ずっと。ずっと、願っていた。
夢と現実との狭間で、最期の剥き出しになった想いを告げる。ずっと伝えられなかった言葉を告げる。それは確かに声になって、この世界に生まれた。想いが、生まれた。
「…愛している…ソーンバルケ……」
地上に零れた言葉は決して幻ではない。そして自分の身体を抱きしめる腕も夢じゃない。声にして、言葉にして、気が付いた。今この瞬間が夢ではないのだという事を。
「―――もっと言ってくれ…もっと……」
こんなお前の声を俺は初めて聴いた。こんな…こんな一番深い場所から…想いを絞り出すような声を。こんなお前の、声を。
「…愛している…お前だけを…愛している……」
どうしてだろう?どうして?何でこんなにも。こんなにも俺は苦しいの?苦しくて息も出来ないほど…お前に溺れているの?
「…愛している…ソーンバルケ…愛している……」
苦しい、苦しいよ。想いを言葉にするだけで。伝えるだけで、泣きたくなるくらいの切なさが込み上げてくる。どうしていいのか分からない。分からないから、だから今は。
「…愛している…ずっと…ずっと、ずっと……」
「―――ああ、サザ…私も…私も愛している…お前だけを…愛している……」
今はこれしか出来ない。言葉を紡ぐ事しか。想いをこうして伝える事しか。声にする事しか、出来ない。
「…愛している……」
伝わる?俺の想いはお前に伝わっている?この苦しさは、この切なさは、お前にちゃんと俺は伝えられている?この想いを。このどうにも出来ない想いを。
唇が、重なった。焼けるような熱さが、絡みあった。その瞬間、俺は目を閉じて安堵した。伝わったんだと。俺の想いはちゃんとお前に伝わったんだと。俺の言葉はちゃんとお前に伝えられたんだと。
唇が離れても、熱い吐息は消えなかった。背中に廻した腕を離したくなくて、ただ必死になって掴んでいた。
「…ソーンバルケ……」
微かに濡れた視界に映るのは何よりも欲しかった碧色の瞳で。全てを見透かすその綺麗な瞳で。そこに映っている俺は、今。今どんな顔をしている?
「…俺は今…ちゃんとお前に…触れているよな……」
泣きそうな顔?それても微笑っている顔?それとも…壊れた玩具のような顔?でもきっとどれも正しくて、きっとどれも間違っている。
「…お前に…触れているよな……」
髪に指を、絡めた。もうずっと。ずっと指先が知っている感触。思い出す前に憶えてしまった、その髪の感触。
「…ちゃんとお前に…辿り着いたよな……」
俺はもう全部憶えてしまっている。記憶してしまっている。俺の全てで『お前』と名のつくもの全てを。その、全てを。
「…お前の…場所に行けたよな…俺……」
「―――ああ…お前は私の『ここ』にいる。この心に」
ずっと辿り着きたかった場所がある。ずっと欲しかったものがある。それは今、ここにある。ここに在るんだ。
「…ソーンバルケ……」
自らが破った壁の先にあった。俺が一番欲しかったものが、あった。それはお前の剥き出しの心。剥き出しになった想い。
「…好きだ…ソーンバルケ…好きだ……」
「―――ああ…私も…」
そしてそれは。それは、お前も願っていてくれたもの。俺の剥き出しの心を。全ての枷を取った想いを。お前も、望んでいてくれた。
「…愛している…サザ……」
降り注ぐ言葉の破片が苦しい程に切ない。その痛みに切り刻まれたいと願いながら、降りてくる唇を受け入れる。それは泣きたくなるほどの優しいキスだった。
俺はこの瞬間に、気が付いた。気付いてしまった。俺はお前を手に入れる為ならばどんな事でも出来るんだと。
だから必死になって否定していた。最期の扉を開かないようにと。
「…もっと…キスしてくれ……」
その扉を開いてしまったら、噴き出す想いを止められないから。
「…幾らでも…お前が望むなら……」
溢れてそして全てを飲み込むこの想いを、止める事が出来ないから。
「…もっと…して……」
全てを失っても、全てを壊しても、手に入れたいという想いが。
――――多分俺は壊れていたんだ。お前に恋したその時から、お前を欲しいと願ったその瞬間から。
止められなかった。唇を重ねてしまえば、願うものは口づけよりももっと先にあるもので。もっと先にある激しいものだけで。
「…あっ…やぁっ……」
指先が触れただけで、身体は浅ましい程に反応を寄こす。びくんびくんっと、感じる個所が触れるだけで跳ねる身体を止められない。
「…サザ…こっちを向け……」
押し寄せる快感に堪えるようにきつく目を閉じれば、囁かれる言葉はより強く耳に響いてくる。その声に導かれるように瞼を開けば、痛いほど強い視線が自分に降り注ぐ。その視線にそのまま貫かれてしまいたいと願うほどで。
「…ソーン……」
「見せてくれ、お前の顔を。全部私だけに」
瞼を開いたまま唇を重ねた。そのまま舌を絡めあい、指先を繋いだ。濡れた音だけが互いの鼓膜に伝わる。ぴちゃぴちゃと、濡れた音だけが。
「…はぁっ…ぁ……」
唇が離れても透明な糸が二人を結んだ。それを舌で舐め取られれば、睫毛が震えるのを止められない。
「…あぁっ…あんっ……」
唇から首筋を辿り、そのまま胸の突起に辿り着く。そこに軽く歯を立てられ、軽く噛まれればそれだけでもう堪える事が出来なかった。出来る筈が、ない。だって自分に触れているのは……。
「…ああんっ…あぁぁ……」
乱れた。思うままに、乱れた。もう隠す事はしない。全ての想いを剥き出しにした今となっては、何一つ隠しはしない。全部、見せたかった。こんなにも好きだって。こんなにも好きなんだって。こんなにもお前に狂わされているんだって。全部、全部見て欲しかったから。
―――こうしてお前に触れられるだけで、どうしようもなく乱れる自分を。
乱されてゆく。曝け出されてゆく。お前の手によって、お前の舌によって、お前の熱によって、全部。全部、俺が暴かれてゆく。
「…ああっ…あああっ!!」
貫かれる痛みよりも繋がっている悦びに全身が満たされた。肉が擦れるたびに、ひとつになっているんだと実感した。お前とひとつになっているんだと。
「…ソーンっ…ソーンっ…あああっ!…ああああっ!!!」
繋がっている個所から広がる熱が、意識を溶かしてゆく。このまま溶けてぐちゃぐちゃになって、そして。そして混じりあえたならば。混じり合ってしまえたならば。
「―――出すぞ、いいか?」
告げられた言葉にこくこくと頷く事しか出来ない。声は熱い喘ぎになり、言葉にならなかった。ただ必死に背中にしがみ付いて揺さぶられる振動に身を任せ、突き上げてくる熱に犯されてゆく事しか出来ない。快楽に呑まれてゆく事しか出来ない。
「ああああっ!!!」
弾けるような瞬間が訪れ、体内に熱い液体が注がれる。その熱を感じながら、自らも欲望を吐き出した。
どうして、こんなにも。こんなにも、愛してしまったのだろうか?問いかけても答えは出ないまま、ここまで辿り着いてしまった。もう二度と戻る事の出来ない場所に辿りついてしまった。
「―――サザ…私は……」
情交の跡が消えない身体を抱きしめ、意識のない瞼にひとつ唇を落とした。そのまま腕の中に抱きしめる。もう二度と、離さないと誓うように。
「…お前に出逢うまで…知らなかった……」
こんなにも自分に激しい感情があったのだという事を。こんなにも自分が誰かに囚われる事があるのだという事を。こんなにも自分が…他人を愛する事があるのだという事を。
「…私がこんなにも…どうしようもない男だという事を……」
お前の不安定な感情を利用した。微かな綻びを無理やりに抉った。本当はもっと違うものを与えてやることも出来た筈なのに。なのに、気付けば奪うほどの口づけを与えていた。
「…お前が欲しいものはすぐに気が付いた…ミカヤの話を聞いた時から…そこに私は付け込んだ…お前の揺らぎを暴いて…そして……」
けれどもお前は答えてくれたから。自らが傷つくことになっても、その手を差し出したから。この手を掴んだから。
「…どちらからだったのだろうな……」
先に惹かれたのはどちらだったのか?先にその手を掴んだのはどちらだったのか?けれども今さらそんな事を振り返ってみても、もう遅いのだけれども。
「…それとも初めから…こうなる事は分かっていたのかもな…お互いに……」
そうだもう全てが遅かった。多分出逢ってしまった瞬間から。最初から…きっと。きっと、もう何もかもが。
――――出逢ってしまってからでは遅かったんだ…互いが惹かれあうのには……
あの日、あの時、あの瞬間に。ふたりが出逢わなければ。あの時言葉を交わさなければ。
「―――初めまして、サザと言ったね…私はソーンバルケ。しばらくこの軍にやっかいになる事になった。よろしく頼む」
けれども、それすらも無意味なのだろう。もしあの時出逢わなくても、また別の場所できっと。きっと、出逢ってしまっていた。
「―――よろしく」
きっとふたりは、出逢ってしまっていた。どんな時でも、どんな瞬間でも。
だってひとつだった。願いはひとつだけだった。ふたりが願ったものは違う形をした、けれども同じものだったのだから。