見上げた夜空からは、零れるほどの星が散りばめられていた。それをぼんやりと眺めながら、そっと吹かれる風に心地よさを覚えながら身を任せる。このまま夜空に浚われてしまいたいという衝動を感じながら。けれども、その衝動はすぐに引き戻される。
「―――ここにいたのか」
振り返らなくても、その声だけで分かる。その耳に残る声だけで。どんなに消そうとしても、耳の奥から決して消えないその声だけで。
「…ソーンバルケ……」
振り返る前に隣に気配がした。だから、振り返らなかった。隣に座る男の名前だけを呼んで、サザはそのまま夜空を見上げる。今にも落ちてきそうな星空を。
「俺を、探した?」
けれども夜空はすぐに遮られた、その穏やかな碧色の双眸によって。鏡のように自分の顔を映し出す瞳は、怖いほどに綺麗だった。
「探したよ。お前が私の視界から消える時は、何時も瞳が不安定になるから」
ソーンバルケの言葉通りその瞳に映る自分は、ひどくぼんやりとして見えた。輪郭からおぼろげになるような、そんな不安定さ。けれどもそんな自分にさせるのは、全部。全部目の前の男のせいだ。彼だけが、こんなにも自分を不安定にさせる。ずっと持ち続けていた強い意志ですら、揺るがす程に。
「よく、見ているな。そんなに俺が好き?」
「―――好きだよ」
迷うことなく返ってくる言葉に嘘何一つない。けれども真実は何処にもないように思えた。分かっている、そう思わずにいられない理由は、その言葉など無意味になるほど自分の方が彼を求めているから。―――自分の方が、ずっと。ずっと、好きだから。
「…もっと言ってくれ……」
腕を伸ばせば、身体を抱きとめてくれた。背中に手を廻せば、優しく抱きしめてくれる。望むものはこんなにも簡単に与えてくれる。けれども、一番欲しいものは…与えてくれない。
「好きだよ、サザ」
言葉の雨を降らせて、その中に埋もれても。溢れるほどの想いの雨に、埋もれても。それ以上の欲望でその存在を求めてしまう限り、それは永遠に満たされることはない。どんなに水を注がれても渇き続ける砂漠のように。永遠に、満たされることは、ない。
――――これを『恋』と呼ぶには、あまりにも苦しすぎた……
惹かれるのに、願うのに、理由はいるの?想いに、名前は必要なの?
「…本当に、好き?……」
この想いに、説明なんてつけられないのに。意味すら無意味なのに。
「―――好きだよ」
どんな言葉を告げても、全部。全部、嘘になるほどに。
「…俺の、全部を…好き?……」
嘘になるほどに、どうにもならない想いで埋められているのに。
「…お前の全部を…愛しいと思っているよ……」
どうにも出来ないから、苦しい。どうする事もできないから、切ない。
――――こんな想いをどうして。どうして、俺はお前に持ってしまったの?
息が掛かるほどの距離で、その顔を見つめた。見つめるだけで切なさが込み上げてくる。どうにもならない切なさが。
「お前の長い人生の中で、俺が棘として残れたら…いいな」
キスをしたかったけど、我慢した。今自分からキスをしたら、瞳の奥のものが零れてきそうだったから。零れて落ちて、溢れてしまうから。
「棘なんて生易しいものじゃない。私にとってお前はそういう存在だ―――お前がそれを認めなくてもね」
背中を撫でていた手が何時しか頬を包み込む。暖かいその手が自分だけのものならばと、願う自分は浅ましいと思う。―――自分は決して彼だけのものではないのに。
「でもお前はどんなに言葉で告げても…信じないだろうね」
降ってくる唇の優しい感触が、瞼が震える程の甘いキスが、全部。全部、心の底まで落ちてくる。落ちてきて、そして。そして意識の中に拡散されてゆく。
「…ソーン…バルケ…んっ……」
解放されて名前を呼べば、再び唇を塞がれる。その繰り返しだった。唇が痺れるほどに与えられるキス。甘くて苦しくて、そして切ないキス。何時しか無意識に目尻から雫が零れる。それは生理的なものなのか、それともさっき必死になって閉じ込めていたものなのか…どちらなのか自分には、もう分からなくなっていた。
―――― 見上げてくる瞳の奥底に在る揺らぎに気付いた瞬間、手放せなくなった。
真っ直ぐに前だけを見ている子供だと思った。迷うことなく、ただひとつの目的のためだけに。その為だけに生きているのだと思っていた。自分とは全く正反対の存在だと、そう思っていた。けれどもほんの一瞬。ほんの一瞬見せた、揺らぎが。その揺らぎに気付いた瞬間、擦り抜けていくはずの視界が、一瞬で止まった。
『―――お前の目的は何だ?』
聴かずにはいられなかった。その目的の中に何か、いびつなものがあるのではないかと思えて。けれども答えは返ってこなかった。ただ、ただ見上げてくる瞳が。その瞳が、ひどく不安定になっただけだった。
『お前に話す理由なんてない』
強い拒絶の中に見えるどこか縋るような瞳。どうしてこんな瞳をするのか、気になった。気になって、気付けば。気付けば何時も、視界の中に止めるようになっていた。
―――強くて、弱いその瞳。何時しか瞼の裏側までその瞳が消えなくなっていた。
唇を離しても、繋がっていたくて指を絡めてみた。大きな手が、迷うことなく自分の手を包み込んでくれる。節くれだった強い、大人の手が。
「…俺がもっと大人だったら…お前と同じ位置に立てるのかな?……」
初めて逢った時から、真っ直ぐに自分を貫いてきた。他人と必要以上に交わらないように壁を作ってきた自分に、真っ直ぐに踏み込んできた。それは今まで自分の信じてきたものを、壊そうかとするように。自分の内側から、壊すように。だから拒絶したのに。それでも踏み込んできた相手。踏み込んで来てくれた相手。知らなかった自分の内側を、暴きだした相手。
「お前みたく、強くなれるのかな?」
それが幸せなことなのか、不幸なことなのかは、自分には分からない。分かっていることはただひとつだけ。ただひとつ、もう戻れないということだけだ。
「お前が大人になって、私と本当に向き合った時…その時には私は」
もう迷うことなく真っ直ぐひとつだけを見ていた自分には、戻れないというだけだ。それでも。
「私は、お前を奪うよ。お前を…壊してでも…そして」
それでも、後悔はしていない。そんな想いすら吹き飛ぶほどに、心が求めてしまっているから。この手を、この唇を、この想いを。
「――――そして…お前に私の想いを、見せつけてあげるよ。嫌になるほどにね」
戻りたくない。お前がいない場所になんて。お前のいない世界になんて戻りたくない。それだけは、確かなことだった。――――それだけは、本当のこと、だった。