Lettuce Garden



伸ばされた指先に必死にしがみついた。暖かく優しい指先に。それが最初の記憶。初めてのぬくもり。そのぬくもりを護る事だけが全てになって、それが生きている意味になった時、もう一方の指先に手が伸ばされた。その手は決して暖かさだけではなかった。優しさだけではなかった。けれどもどうしようもない程に惹かれた手のひらだった。

―――この手を掴んだままもう一方の手を望めば、自身が引き裂かれる事は分かっていたのに…

それでも伸ばさずにはいられなかった。掴まらずにはいられなかった。自分自身がどうなろうとも、その手が欲しいと思った。どうなってもこの手の熱さを、強さを、望んだ。だから懸命になって、この手を伸ばした。


壊れても良かった。どうなってもいいと思った。生まれて初めて願った。『自分自身』の為に望んだ。お前が、欲しいと。お前だけが、欲しいんだと。


無意識に伸ばした手のひらは、いつの間にかその大きな手に包まれていた。節くれだった大きなその手に。そこから伝わるぬくもりと熱が、まるで世界の全てだと思えるほどに全身に浸透してゆく。
「…ソーン…バルケ……」
瞼を開いた先にあるその顔を見つめて名前を呼べば、結ばれた手のひらに力がこもる。ずっと願っていたものだった。ずっと欲しいと思っていたものだった。それが今。今確かにここに在って。
「―――目が覚めたか?」
「お前ずっと、こうしていてくれたの?」
「…ああ……」
きつく結ばれた手のひらと、そっと抱きしめてくれる腕。意識がない間もずっとこうしていてくれた。ずっと。
「…ありがとう……」
壊れてもいいと思った。どうなってもいいと思った。お前が手に入るのならば、自分はどうなってもいいと思っていた筈なのに。なのにこうして碧色の瞳に映る自分を見ていたら、それすらも嫌だと思う浅ましい自分がいた。

―――だって壊れてしまったら、もうこの瞳をこうやって見る事が出来なくなる。

結ばれた指先をそっと解いてその背に腕を廻した。今はただきつく抱きしめて欲しかった。きつく抱きしめて、その存在を感じたかった。
「…俺やっと…お前の場所まで…辿り着けた……」
微かに薫るお前の匂いを、他の誰にも渡したくなかった。それを知っているのが俺だけであってほしいと願った。それはどうしようもない我が儘で。自分勝手な想いで。けれども、もう。もう、止められない。留め金が外れた想いは溢れて流れて、そして全てを溺れさせてゆく。狂うほどに、俺の全てを飲み込んでゆく。
「…もう…俺は…お前から離れられない…どんなになっても……」
理由も意味も何もかもが無意味だった。どんな説明を付けてもこの想いの答えなんて出てこない。どんな答えを導いても、その全てが正しいものとは思えなかった。
「離れなければいい。ずっとここにいればいい」
息すら出来なくなる程の抱擁に目眩すら覚える。それは泣きたくなるほどのしあわせで。そして永遠とも思える渇望で、願いだった。


なにもいらないと、思った。お前がいてくれさえすれば。
「ずっと私のそばにいてくれ、サザ」
何も、いらない。お前以外。何も、欲しくない。それが。
「…ソーンバルケ……」
それがどんなに『自分自身』にとって赦されない事であっても。
「―――私のそばに……」
今まで積み重ねてきた自分自身を、裏切る事になっても。


――――もう誰に何を言われてもいい…誰にも赦されなくてもいい…お前のそばにいられるならば……


瞼を閉じれば、残像が浮かんでくる。それは優しく微笑うミカヤの顔だった。その顔が静かに消えてゆく。そっと、消えてゆく。そして真っ暗な闇になった瞬間、俺は最期の光を捨てた。何もかもを捨てて、お前だけを願った。
「そばにいる、ずっと。俺はお前だけのものになるから」
きっとこうなる事は分かっていた。分かっていたから必死に否定していた。必死に否定して、ぎりぎりの場所で自分を護っていた。それがどんなに無意味な事でしかないと分かっているのに。
「だから俺がどんなになっても…捨てないで……」
優しい場所があった。無償の愛があった。暖かく穏やかな手のひらがあって、その手を結んでいれば自分は孤独とは無縁の場所にいられたのに。それなのに、それ以上に欲しいと願った醜い感情がここに在るから。
「…そんな事が出来たなら、とっくに私たちは別の場所で幸せになっていた。そうだろう?」
そこにあるのは永遠の渇望。永遠に満たされはしない想い。この感情に終わりがないと知ったその瞬間から、どうやっても満たされる事はないのだと理解した。それでも良かった。それでも構わなかった。お前のいない世界で他の誰かと幸せになるよりも、お前とともに終わりのない闇に堕ちてゆきたいと思った。
「――――私がお前を欲しいと願った。どんなになろうとも欲しいと思った存在はお前だけだ。お前が壊れてもどうなっても…私は決してお前を離さない」
離さないでほしい。この身体が朽ち果てるまで。身体も命もなくなって、自分という存在がこの世界から消えてなくなっても、お前の心の奥に突き刺さっていたい。どんなになっても、お前という場所に俺が在ってほしい。
「私はお前のものだ。そしてお前は…私だけのものだ……」
うん、そうだよ。俺はずっとそうなりたかった。ずっとお前だけのものになりたかった。もう自分を繕わない。自分を裏切らない。その先に在るものが何であろうとも、俺は剥き出しの心をお前に向けるから。この醜いまでの独占欲を。
「…好きだ…ソーンバルケ……」
背中に廻していた腕を伸びた前髪に絡め、そのまま隠されていた印を暴く。そのままそっとその印に口づければ、廻された腕がそっと背中を撫でてくれた。
「―――ああ、私もだ」
見つめ合う瞳に映っている姿が自分だけだと確認して、そのまま瞼を閉じた。もう残像は何も浮かんでは来ない。何もない。降りてくる唇の熱さ以外には、何もなかった。


―――――埋められて、満たされて、そして溺れてゆく。それがしあわせか不幸かなんて、分からない。分からなくていい。もうそんな事はどうでもいいんだ。


結ばれていた優しい手のひらを離したのは自分自身。その手を離したのは自らの意思。
「このままお前を連れ去って―――」
そして選び取った。この手のひらを、この腕を、自分自身が選んだ。自らが望んだものを、自らの意思で選び取った。
「永遠に…私の中に閉じ込める……」
お前が俺を望んだ。俺がお前を願った。お前が俺を見つけ出し、俺がお前を捜しだした。
「…愛しているよ…サザ……」
「うん、ソーンバルケ…俺も…お前だけを…愛している……」
お前の瞳に映っている俺の顔は、自分でも驚くほど満たされていた。満たされてしあわせで、そして狂っていた。


――――恋焦がれ…どうしようもない程にお前を欲しがって、狂っていた。


指先を絡めて、きつく結んで。伝わるぬくもりだけが全てになった。伝わる熱だけが、全てになった。そしてお前という存在以外が全て世界から消える。光も闇も何もかも消えて、そこにお前だけがいる。お前だけが、在る。



「…愛している…ソーン……」



何もない剥き出しの笑顔はまるで子供のようだった。幼い子供のように純粋で、綺麗だった。その笑顔を私は願った。ずっとその笑顔を見ていたいと、それだけを願った……。