Your smile



無防備なほどむき出しになった笑顔が、ずっと。ずっと、続いてほしいと願った。


正直、読み書きは得意じゃなかった。けれども何もせずにただそばにいるだけでは駄目だと思ったから、苦手だったけど必死になって勉強した。
「なあ、ソーン。これは何て読むんだ?」
ラグズでもベオクでもないもの達の国を作る。この小さな集落を国へと変えてゆく。それは容易いことではないけれど、目の前の相手は決して弱音を吐く訳ではなく、目的の為に確実に前へと進んでいる。迷うことなく、自分が決めた道を。
「ああ、これか。これは――――」
国を作る、政治を行う。それがどんなに大変な事かはミカヤのそばにいた自分は嫌というほどに理解している。理解しているからこそ、少しでも役に立ちたいと思った。
「ラグズの言葉は難しいな。でもお前はどっちも理解しているんだから…凄いな」
「それは生きてきた年月の違いだ。別に凄くはない」
ミカヤとともにいた時とは違う、自分自身の意思が望んで願って、そして決めた事。与えられるだけじゃない、一方的に護りたいと願うのとも違う。一緒に生きてゆくこと。分け合う事、奪い合う事。そして…支えあう事。
「でも俺がお前くらいに生きていても…お前みたいにはなれないから」
「なる必要はない。お前は『お前』だけだ。他の誰にもなれない」
その言葉はいつも。いつも自分を強くしてくれる。その言葉がある限りもう自分は二度と迷うことはないのだろう。自分が見つけたものを、自分が手に入れたものを、離すことはない。
「――――私にとってお前は『お前』だけだ……」
そっと降ってくる唇の感触はもう哀しさは生まなかった。ただひたすらに優しく、そして。そして愛しいものだった。溢れるほどしあわせなキス、だった。

あふれるほどのしあわせが、永遠ではないと知っていても。それでも構わなかった。それでも、構わない。私にとってお前がここにいるという事実だけが本当の事だから。

唇が離れて見上げてくる瞳には翳りはどこにもなかった。全てが剥き出しになって無防備になった翠色の瞳だけが今ここにある。
「俺あんまり勉強とかしてこなかったら、正直こういうのは苦手だけど…でもこうやって勉強出来ることは幸せなんだよな」
「…サザ……」
「生きるために戦いの術を覚えることよりも、ずっと幸せな事なんだよな」
その瞳を望み願い、そして癒される自分がいる。多忙な日々の中でもこうして振り返ればその存在がある事が、何よりも自分にとっては安らぎで幸福な事だった。そして。
「ああ、そうだ。だからお前はその幸せを存分に満喫してくれ」
「…う、そう言われると……」
「冗談だ」
「あーひでーっ!何だよそれっ!!」
「ははは、これも私からの愛だ」
「もうっお前はっ!」
そしてこうやって声を上げて笑いあえる事が。何気ない会話の中で、穏やかな空気の中で、こうして。こうして、微笑っていられることが何よりもかけがえのないものだった。かけがえのない時間だった。


――――ふたりが捜していたものは、きっと本当は凄くささやかなもので。けれども何物にも変えられないただひとつの。ただひとつの、大切なものだった。


何度も指を絡めてきたのに、それなのにどうしてこんなにもどきどきするのだろう?こうやって手を繋ぐという行為が。
「…別に…迷子になるようなガキじゃねーのに…何だよ、これは」
憎まれ口を叩くのは、手のひらの汗に気付かれたくないから。もっと恥ずかしい事をたくさんしているのに、こんな事ぐらいで緊張している自分に気付かれたくないから。
「私がしたかったのだ。こんな風にお前と手を繋いでみたかった」
「…だからって…お前自分の立場分かってんのかよ…」
こんな人通りのある通りで、男同士で手を繋ぐなんて行為だけでも問題なのに、まして目の前の男は仮にもこの国の王になる人物で…。
「私にとっての国はどんな『ヒト』も差別なく暮らせる国だ。だから私の恋人がどんな者であろうとも、隠す理由はない」
「…全くお前は…さらりと言いやがって……」
「本当の事だ」
「…そうじゃ…なくて……」
「―――ん?」
わざと聴いてくる相手を恨めしいと思いながらも、それ以上に喜んでいる自分に気付いてそれ以上の問いには答えられなかった。今更自分の存在が相手にとってどんなものかと問いかけようとは思わなかったが、こうもあっさりと告げられるとは思わなかったので。
「まあいい。その答えは家に帰ったらじっくりと聴こう」
「―――全くお前は……」
呆れながらも、それでも内心は嬉しくてたまらなかった。嬉しくてたまらない。どんな些細なことでも、どんな一言でも、全部が喜びになってゆく。
「それよりもせっかくここまで来たんだ。行くぞ」
手は繋がれたまま歩みを進めてゆく後ろ姿を自然と瞳が追いかける。こうして広い背中を見ているだけで安堵する。もうこの背中が自分の視界から消えることはない。もう二度と自分の元から消えることはない。もう怖いものは、何もない。

―――――もう何も、怖くない。お前がいる限り……

人々の視線も気にならなかった。印付きではない自分を見る目は、逆にここでは好奇の視線だった。こうやって印付きの者達はベオクの国で、もしくはラグズ国で好奇や蔑みの視線で晒されてきたのだろう。こうして自分がそのような立場になって初めてその視線の痛みに気付く事になる。でも今の自分にとっては、この広い背中の前では無意味なものになっていた。どんな目で見られようとも、この繋いでいる手がある限り。
「あ、ソーンバルケ様。お待ちしていました」
カランと扉に付いていた鐘が鳴ると同時に掛けられた声に、ソーンバルケが片手を上げて答える。そこは商店街の中にあったレンガ造りの小さな店だった。
「ソーン、ここは?」
「見ての通りだ」
店内を見渡せば色取り取りの宝石とアクセサリーが並べられていた。あまりにも自分とは縁のない店で逆にまじまじと眺めてしまう。そんな自分を余所にソーンバルケは店主に何やら告げると、相手は奥から小さな箱を持って来る。
「頼まれていたお品はこちらでございます」
「―――すまないな、店主」
「いいえ他ならぬソーンバルケ様の注文とあれば、お安いご用です。けれども」
店主の視線が自分に向けられて思わずサザの瞳が見開かれる。そんなサザの表情を見つめて店主はひとつ口元に笑みを浮かべて。
「けれどもこの翠色の瞳以上に綺麗な宝石は、流石にこの私といえども捜せませんでしたよ」
何を言っていいのか分からずに呆然としているサザに代わって『それは仕方ない事だ』とソーンバルケは答えると、店主に礼を述べると店を後にした。その間も、ずっと手は繋がれたままで……。


気付けば太陽は西に傾き、地上は茜色に染まっていた。見上げた先の木の下にも長い影が広がっている。町並みを抜けて帰宅する途中にある小高い丘の上に二人で立った。そこはこの『国』を一望出来る唯一の場所であり、そして他人が踏み入れる事のない忘れ去られた場所だった。
「私は何かあるといつもここに来ていた。自分の身体に流れる血の意味を知った時も、戦う意味を自分自身に問いかけた時も…そしてお前と離れた時も」
「―――ソーン……」
「私にとってそういう場所なのだ、ここは。だから」
ソーンバルケは先ほど店で渡された箱を取り出して中を開ける。そこにはサザの瞳と同じ色をした宝石が銀色の鎖によって繋がれていた。そのペンダントをサザの首にかけてやると、そのままひとつ指先に唇を落とす。
「こんなものでお前の心を繋ぎ止められるとは思わないが…それでもこうして目に見えるもので繋いでおきたかった」
「…そんな事をしなくても…俺はお前だけのものなのに……」
「それでも私は形にしたかった。そして言葉で伝えたかった、サザ」

「――――これからのお前の人生を…私にくれ…そして、私とともに生きてほしい……」

あふれるほどのしあわせは永遠でないと分かっていても。この瞬間が瞬きするほどの時間でしかないと知っていても。それでも。それ、でも。
「…答えなんて…聴かないでも…分かっているだろ?……」
指を絡めていたい。瞳を重ねていたい。何気ない言葉を交わしていたい。巡りゆく時の中で、流れてゆく時間の中で、立ち止まった一瞬の邂逅が全てになった瞬間だから。
「それでも聴きたい。お前の口から聴かせてくれ」
他の誰でも駄目だった。どんな相手でも駄目だった。目の前の相手以外は。他の誰も代わりになんてなれないんだ。
「…生きてゆく…俺はお前と生きてゆく…ずっと、ずっと……」
大事に護ってきた指先を離してまでも選んだ相手。掴み取った相手。自分自身の意思で、手を伸ばした相手だから。
「…ずっと…生きてゆく……」
「…ありがとう…サザ……」
どちらからともなく重なり合う唇が、繋がりあう指先が、伝え合う体温が。その全てが混じり合って境界線がなくなって、そしてひとつになれたらと願った。それだけを、願った。



唇が離れて見下ろしたその顔は無防備なほどに、むき出しになった笑顔だった。