夢よりも、ずっと。ずっと、しあわせな日々。だから気付いてしまった。しあわせすぎるから、気付いてしまった。
溢れるほどのしあわせで自分が埋められてゆく。空っぽだった器が満たされて、そして。そして足許すら見えなくなるほどに、注がれる。しあわせで、しあわせすぎて、もう手放す事の出来ない日々。手放す事の出来ない日常。そんな日々の中で、不意に気が付いた。気付かされた。自分の見えなくなった足許の先にある微かなひび割れに。それは心の何処かで気付いていながらも、必死になって目を逸らしていたものだった。見つけたくないものだった。気付きたくない事、だった。
―――――まるで鏡のようにふたりは互いに向き合って見つめていた。同じものを少しだけ違う場所から見つめていた。
こうして手を伸ばせば触れる事が出来る。触れてその体温を、ぬくもりを、感じる事が出来る。そばにいられる。そばにいる事が出来る。それはどんなに幸せな事なのだろうか?
「ソーンバルケ、俺」
名前を呼べば振り返り、その碧色の瞳に自分を映しだしてくれる。こうして自分だけを。それは泣きたくなるくらいの幸せだった。溢れて零れて、どうしようもない程の。
「どうした?サザ」
柔らかい笑みを浮かべながら、そっと抱きしめてくれた。この場所は世界のどの場所よりも安全な場所だと知ったのは、もしかしたら初めて抱きしめられた時からだったのかもしれない。この場所だけは絶対に自分を裏切らず、護ってくれる場所なのだと。
「…ミカヤに…逢ってこようと思う…」
この絶対的な安心感と揺るぎない想い。それを確かに感じる事が出来る自分が今ここにいる。この先何があろうとも、もうこの腕を失うことはないと信じ切れる自分がいる。だからこそ。だからこそ、今。今、俺はミカヤに逢いたいと思った。
「お前がそう決めたのならば、私は何も言わない。だが」
大きな手がそっと髪を撫でてくれる。節くれだった力強い指先になのに、こんな時は誰よりも何よりもその指先は優しくなる。優しすぎて、苦しい程に。
「――――お前の還る場所は『ここ』だけだ」
見つめて、見つめあって、そのまま。そのまま唇を重ねた。そこから広がる熱が、ふたりをきつく結ぶ。誰にも解く事なんて出来ないほどにきつく、きつく。
何度こうして抱き合ってきただろうか?数え切れないほどの夜をこうしてふたりで過ごしてきた。それは時には苦しく時には罪悪感に襲われながらも、それ以上の背徳感と快感と、そして何よりもどうしようもない程の執着心で、この腕をこの髪をこの想いを求め続けていた。
「…はぁっ…ぁぁっ……」
背中に爪を立てる事が所有の証のような気がして、止められなくなっていた。この痕が消えないようにと願いながら、消さないようにと何度も求めた。
「―――サザ、もっと見せてくれ。お前の顔を…私に溺れた顔を……」
微かに掠れた声が耳元に降ってくる。その声に導かれるように瞼を開ければ、俺しか知らないお前の顔がある。そう、こんなお前の表情を知っているのは俺だけだ。そしてこうしてどうしようもないくらいに乱れてお前を求める俺の顔を知っているのは…お前だけだ。
「…ソーン…ソーンっ…好き…だっ…お前だけが……」
舌を伸ばし、お前のそれに自ら絡めた。ぴちゃぴちゃと濡れた音だけが部屋を埋める。淫らな音だけが、室内を埋めてゆく。
「…んんっ…んんんっ…ふっ……」
何度も何度も口中を貪り、唇が紅く染まるまで口づけを繰り返す。唇を繋ぎながら互いの身体を弄り、そして身体を繋げあった。きつく、結びあった。
「…サザ…私だけのものだ…お前は……」
「…あああっ!…あああっ!!……」
唇が離れれば溢れるのは嬌声だけで。後は媚肉の擦れ合う感触と、繋がった個所の焼けるほどの熱さだけが全てになって。
「…ソーンっ…中に…中に出して…っ…くっ…ああああっ!!」
注がれる熱だけが自分の意識の全てになった。感覚の全てになった。自分と名のつく全ての意識が、お前だけに集中する。俺の全てが、お前に濡れた。
―――――好きで、好きで、どうしようもなかった。本当にどうしていいのか分からない程に、お前という存在に溺れていた。正しいとか間違っているとかそんな判断すらもう遠い場所にあって、理性はもう何処にもなくただ剥き出しの本能だけでお前を求めた。お前という存在の全てを欲した。何処にも隙間がなくなるくらいに、何処にも綻びが見つからなくなるほどに、お前だけを望み願った。
『――――これからのお前の人生を…私にくれ…そして、私とともに生きてほしい……』
全部、あげるから。俺の全てをお前にあげるから、だからずっと。ずっと一緒にいて欲しい。ずっとそばに置いてほしい。本当にそれだけだった。もう俺は他に何も望まない。お前という存在以外、願うものは何もなくなっていた。
だから、気付いたのかもしれない。だから、気付いてしまったのかもしれない。お前しか見えなくなった俺だから、理解してしまったのかもしれない。
不思議な感覚だった。まるで自分がこの場所から切り取られたような感覚だった。ほんの数年前までは確かにここは自分の『居場所』だった筈だ。少なくとも生まれてからずっと過ごしてきた場所だった。それなのにこの地―――デインにいる自分に対する違和感は拭えなかった。違和感が、消えない。そばにいないだけで。その腕がここにないだけで。
風景はあの頃と何も変わってはいない。戦争が終わり復興してゆく姿をこの目で見てきたのに、それなのにここはまるで自分の知らない場所のように感じる。そう何も変わってはいない。変わったのは…自分の方だ。
「―――サザ…久しぶりね…逢えて嬉しいわ…」
そしてあの頃と何も変わらないミカヤがここに、居る。その姿は自分の記憶していた彼女とは何一つ変わってはいない。あの頃のまま綺麗でそして優しい瞳を浮かべる大切な女だった。
「サザがあの人のもとに行ってもう五年以上経っているのに、まるで昨日の事のように思い出せるわ」
「…ミカヤ……」
優しい笑顔。優しすぎる笑顔。ずっとその顔を向けてくれていた。子供のころからずっと母親のように姉のように、唯一の肉親としてこの自分に。
「ミカヤは何も変わっていないな…あの頃のままだ……」
変わってはいない。口に出してみて、違和感を覚えた。確かにミカヤはあの頃と何一つ変わってはいない。それでもあの頃と同じように自分の瞳に映っていないのは、自分が変わってしまったからだろうか?それとも。それとも?
「サザは変わったわ。もう瞳が淋しくない…私が手を差し出さずにいられなかったあの頃の瞳は何処にもない…幸せなのね」
頷くしか出来なかった俺を見上げる瞳はまるで鏡のようだった。ふたりだけの世界にいた時は、その瞳に映る自分の顔ばかり見ていた気がする。どうしようもなく淋しくちっぽけなガキの顔を。でも今は違うものを見ている。ミカヤの『瞳』を、見ている。
「サザの足りなかったものが埋まっている。ふふ、今やっと私は本当の貴方と向き合っている気がする」
細くしなやかな指がそっと髪を撫でてくれた。柔らかく繊細な指がずっと俺を導いていてくれた。空っぽだったガキにたくさんの感情を教えてくれた指先。それはずっと変わらずここにある。ここにあるのに。
「――――俺もやっと…ミカヤとちゃんと向き合えた気がする」
ここにあるのに、不意に遠くに感じた。遠い場所にあるような気がした。変わってはいないのに、何も変わってはいないのに、とても遠い所にあるような気がした。
「…ミカヤ…ひとつ聴きたい事がある……」
俺の隙間は全て埋められ満たされた。そうする事で俺は前に進む事が出来た。見えなかったものが、気付かなかったものが、見えるようになった。分からなかった事が理解出来るようになった。人を愛する事を知ったから、人に愛される事を理解出来た。どうしようもない程の欲望を知ったから、諦める事の出来ないどうにもならない感情を理解した。
そして、気付いた。想いだけではどうする事も出来ない事があるのだと。願いだけではどうやっても叶わない事があるのだと。人の想いというものが自分の力ではどうする事も出来ないものだからこそ、全てが満たされる回答はないのだという事を。
「――――どうして、気が付いた?」
「…え?……」
苦しい程の感情だった。零れて溢れるほどの想いだった。けれども必死になって隠してきた。隠してきた想いだった。繋がった手を離す事が出来ないと必死になって、閉じ込めてきた想いだった。なのに―――――
「俺の気持ちにどうして気が付いた?」
本当はずっと。ずっと聴きたくて、そして聴きたくない事だった。見えなかったものが見えるようになって、気付かなかった事に気付けるようになって、そして。そして辿り着いた先に在るものがゆっくりと足許に罅を作ってゆく。
「…サザ……」
「…俺があいつをずっと想っていた事に……」
微笑う。俺の言葉にそっと。そっとミカヤは微笑った。それは今まで見てきたどんな彼女よりも綺麗だと思った。ただ綺麗だと、それだけを思った。綺麗過ぎて、触れてはいけないものだった。俺が触れる事は許されないもの、だった。
―――――私は知っている。貴方の中に生まれた想いの名を…知っている……