枯れ木のようなその手を取った時から、ずっと。ずっと一緒に過ごしてきた。貴方が『生きる』という事を始めたその時から、ふたりとしての記憶が始まった。小さくて、どうしようもなく小さくて哀しい指先は、何時しか私の手を包み込むほど強くて逞しいものへと変化する。そして懸命に私を護ろうとしてくれた。
――――それはとても優しく心地よく、けれども私にとっては苦しいものだった。
始まりがあれば終わりがある。それは何よりも私が一番知っていた事。それでももう少しと、あと少しだけとこの手のぬくもりを求めた。もうすぐ子供の時間が終わると分かっていても、この手を離さなければならないと理解していても、それでもと思ってしまったのは。それでももう少しだけ子供でいて欲しいと願ってしまったのは、私が少しだけ淋しくてそして。そして私が貴方と同じものを見ていたからだった。
……きっと…何処かで願っていた…気付かないでと…気付かないでほしいと……
全てを知りたいと思う事は間違えじゃない。けれども全てを知ってしまう事が決して正しい事でもないのだと、何時しか理解出来るようになっていた。ただ自分の感情のままに自分の心の欲求のままに、全てを追及する事が全てではないのだと。
「―――私はずっとサザと一緒にいたのよ。貴方を子供のころから見てきたのよ。本当に貴方がこんな小さな子供のころから」
穏やかに微笑むこの女を、俺は何と呼べばいいのだろうか?自分にとって母親であり姉であり、そして俺にとっての半身である彼女を。
「だから貴方の心は手に取るように分かるの。貴方が何を感じ、何を想っているのか…だって私はサザの唯一の『家族』なのよ」
――――家族…互いに与えあい望みあった無償の愛情の形ある答えはそれなのだろう。けれどもそれ以上に形にすることの出来ない、言葉にする事の出来ない絆がふたりにはある。それは。それは……。
「だから貴方の気持ちに気付いたの」
綺麗な笑顔が、綺麗過ぎる笑顔が、真実を口にすることを拒絶した。ああ、そうだ。そうだ、俺が気付いてしまった小さな罅は間違えじゃなかった。けれどもそれを口にすることは決して正しい事じゃない。違う正しい事であっても…俺が言葉にしてはいけない事なんだ。
「…ミカヤ…ありがとう……」
誰にもどうする事が出来ない想いがある。どんなに願っても祈ってもどうにも出来ない事がある。誰も間違ってはいないのに、どうする事も出来ない想いがある。それに気付いたのは、気付く事が出来たのは、俺がもう子供ではないから。幼いままのただ剥き出しの感情を向けるだけの子供じゃないから。
「―――サザ……」
哀しい程に純粋でいられたのは、ミカヤがいてくれたから。俺があいつの手を取る事が出来たのも、愛するという意味を知る事が出来たのも、ミカヤが感情を与えてくれたから。ミカヤが俺という『人間』を生まれさせてくれたから、だから。
「…そして…ごめん……」
だから今こうして完成した俺を、誰よりも真っ直ぐに見つめてくれる瞳は。その瞳は何よりも綺麗で、そして。何よりも遠い場所に、在る。
「…話をして…サザ。貴方があの人の所に行ってからどんな事があったのか…私に聴かせて……」
話をしよう、ミカヤが望むならば。俺とあいつの話を聴かせよう。ミカヤの元を去ってから俺たちがどうやって過ごしてきたのか、聴きたいのならば全部。全部、話をしよう。それをミカヤが望むならば…俺は幾らでもあいつの話をしよう。
時間を忘れてふたりして語り合った。あいつが築こうとしている国の話を。あいつが目指しているものを。そんなあいつを俺なりにどうやったら手助けが出来るのかと考えている事を。俺とあいつふたりで積み重ねてきた日々を。ふたりで見てきたものを。ふたりが過ごした時間を。
「…ありがとうサザ…話してくれてありがとう」
そんな俺に穏やかに微笑むミカヤの顔は、とても綺麗で。その顔は俺の母親でも姉でも家族でもない…もっと別の顔だった。そして。
「サザも…しあわせでいてくれて…良かった……」
そして変わる事のない手のひらでそっと俺の髪を撫でてくれる。それはずっと変わらないもの。俺とミカヤを結んできたもの。そしてこれからも結んでゆくもの。
「ミカヤもしあわせになって欲しい。それが俺にとっての一番の願いだ。本当にこれが俺にとっての一生の願いだ」
変わらないものと変わってゆくものと、そして。そして子供である事と大人になってゆく事。その全てが何処か矛盾しているものであっても、それでも受け入れてゆく。受け入れて飲み込んで、生きてゆく。
「――――その言葉だけで私はしあわせよ。ありがとう、サザ」
俺に出来る事はきっとこれだけだ。それ以上の事は、俺は踏み込んではいけない。ミカヤの手よりもあいつの手を取った俺は、こうして願う事しか出来ない。それでいい。それで、いいんだ。ミカヤが望まない以上、俺は瞼を閉じて抱える矛盾を心の奥で飲み込んで折り合いをつけるしかないのだから。――――それしか、出来ないのだから。
…ずっと、見てきた。ずっと、見つめてきた。ふたりは同じものを、ずっと…ずっと……
伸ばされた腕の中に迷うことなく飛び込んで、そのままきつく抱きしめられた。目を閉じなくても憶えたこの腕の中のぬくもり。それはもう俺にとっての『日常』になっていた。
「――――おかえり」
「…ただいま…ソーン……」
短い言葉だけで全てが伝わる気がした。分け合うぬくもりと、触れ合う唇が全てを伝えてくれる気がした。なにも、かもが。
「ここが俺の場所だ。お前の腕の中が…俺の居場所だ……」
睫毛が重なる距離でその顔を見つめたら、不思議と涙が零れてきた。何に対して零れてきたのか理由も分からないまま、ただ苦しくて切なくて…どうしようもなくて泣きたくなった。ただ、泣きたくなった。
「…俺の…場所だ……」
「ああ、そうだ。お前の場所はここだ。私の腕の中だ」
零れてくる涙を拭う指先は優しい。それはミカヤの繊細な指先とは違う、節くれだって強い指先。けれども何よりも優しい指先。これがどんなものよりも俺にとっては欲しくて、必要なものだった。大事なもの、だった。
「…お前だけのものだ…私のこの場所は……」
ミカヤによって生きるという意味を知った俺は、お前という存在によって生きたいと願うようになった。生きてゆきたいと、お前とともに生きてゆきたいと。欲しいという欲求も、渡したくないという独占欲も、人としての醜い感情も、全部お前がいたから知った。そしてお前がいたから知ることが出来た。誰かを愛するという事を、誰かに愛される喜びを。
空っぽの器に注がれた溢れるほどの想いは決して綺麗なものではないけれど、それでも自分という器の全てを満たしてくれた。隙間なく満たされ、そして生きるという事を実感した。生きるという意味を知った。
「――――私はお前だけのものだ…サザ……」
綺麗じゃなくていい、優しくなくてもいい、欲しいものは『本当』の想いだった。大人になっても正しい事が全てではないと知っても、それでも。それでもお前から望むものは嘘偽りない剥き出しの想いだ。それがお前の手を取って生きるという事。お前とともに生きてゆくという事。それがひとを愛するということ。愛されるという事。
「…うん…うん…ソーン…俺も…お前だけのものだ…お前だけの……」
優しくなくても、誰かを傷つけても、それでも願って望んで欲しがったもの。何もかもを捨てても、積み重ねてきた全てを崩しても、それでも必死で掴み取ったもの。痛みも苦しみも醜さも穢れも全部受け入れて、それでも手を伸ばしたもの。それがこの愛だから。
「…愛している…ソーンバルケ…お前だけを…愛している……」
閉じた瞼の裏に聴こえてくる声は、永遠に耳元から消える事はない。ずっと、消える事はない。鮮やか過ぎるほどに、耳元に残っている。
「――――ミカヤか……」
扉が開く音がしてソーンバルケは顔を上げた。濁ってしまった瞳にはその姿を映す事はなかったが、訪れた相手が誰だかはすぐに分かった。
「よく私だと分かりましたね。貴方の瞳はもう何も見えていないのに」
「同胞は気配で分かる。それにお前はあの頃のまま…多分何も変わってはいないのだろう」
近づく気配がする。その気配を纏う空気はひどく懐かしいものだった。あれからどれだけの時が流れたかもうソーンバルケは数える事をしなかったが、それでも自分の命がもう終わる時まで流れている事だけは分かっていた。
「…サザの墓参りに来ました。多分ここだろうと思って……」
「――――そうか……」
それ以上ソーンバルケは何も聴かなかった。聴いた所でどうなる訳でもない。死に逝く自分にとってそれは必要のない事だった。
「あの子はよく言っていました。貴方のお気に入りの場所に自分が死んだら埋めてもらうんだって。死んでも貴方をそうやって見ていきたいって」
ふわりと風が吹いて髪を揺らした。ミカヤが窓を開けたのだろう。砂漠が国になり、平和と安定を見届けて王という地位から退いた。そしてやっと『自分』の為だけの時間だけになった時、残ったものはこの丘にある小さな墓だけだった。
墓のそばに小さな家を建てて『俗世』から離れて、想い出とともに自分に残された時間を過ごした。それは穏やかで優しさだけが包む、静かな静かな時間だった。
「ずっとこうしてサザは貴方を見てきたのね。そして今も……」
窓の先の小さな墓にミカヤは視線を移す。そこには先ほど自分が置いてきた花束が見えた。小さな花束が。
「…ミカヤ…ひとつだけ私の我が儘を聴いてくれるか?…死んだらこの身体をサザと同じ場所へ埋めてくれ……」
「その前に私の我が儘を聴いてくれますか?」
そっと微笑ったミカヤの顔をソーンバルケは見る事は叶わなかったけれど、何故かその顔は鮮明に脳裏に浮かんできた。それはきっと今まで知っている彼女のどんな顔よりも強く鮮やかな笑みなのだろうと。
「――――そのペンダントを私に下さい…サザと…そして貴方の形見として……」
それは自分がサザに与えたものだった。サザの瞳と同じ色をした宝石をあしらったペンダントは、その持ち主を失ってからは自分が身に着けていた。
「ああ、構わない。もう私には必要のないものだ。あいつのそばに逝く私にはもう形あるものは必要じゃない……」
「…ありがとうございます…大切に…大切にします……」
ぬくもりがそっと指に触れた。ミカヤの手のぬくもりは少しだけサザのそれを思い出させた。けれどもそれだけだった。どんなに魂が近くても、どんなにふたりに深い絆があっても、同じではない。同じ人間では、ない。
『…愛している…ソーンバルケ…俺の場所は…ここだけだ……』
消える事もぼやける事もなかった。お前の顔が、お前の表情が、今もこうして手に取るように鮮やかに浮かんでくる。その翠色の瞳が真っ直ぐに私を見つめてくるその瞬間が。
「…ミカヤ…お前は…強いな……」
声が聴こえてくる。遠くから、近くから。お前の声が、聴こえる。私を呼ぶお前の声が。迷うことなく告げてくれるようになった言葉が―――愛していると、そう……
「―――それは貴方のせいです…貴方が私を強くしたのです……」
お前は気付いていた。それでも私の手を取った。私の手を取って、くれた。お前の中にある矛盾と折り合いをつけて、私とともに生きてくれた。
「…ミカヤ…ありがとう…そして……」
誰のせいでもなく、誰が悪いわけでもなかった。ただひとを愛するという事を知っただけだ。人を愛するという意味を知っただけだ。
「…すま…な…い……」
子供のように微笑うお前が見える。ああ今、今お前の所に逝く。お前の場所を与えにゆく。お前の居場所はここだ。この私の腕の中だ。私の腕の中だけ、だ……
抱きしめて、きつく抱きしめて。愛していると告げよう。お前だけを、愛していると。
動かなくなった冷たい手のひらをそっと包み込み、そのままミカヤは頬にあてた。ぬくもりはもう何処にもなかったけれど、それでも触れたかった。愛しいその手のひらに、触れたかった。それはずっと。ずっと叶えたくても叶わない願いだった。
――――けれども今。今こうして触れている。ただひとつの手のひらに、触れている。
目を閉じて何処にもないぬくもりを追った。こうして重ねていれば体温を分け合えるような気がしてしばらくそのまま手のひらを重ねていた。重ねて、ぬくもりを分け合った。