何もいらないから、そばにいて。もう他には何もいらないから。だからそばにいてくれ。俺のそばに、いてください。
――――なにもいらない。綺麗な夢も、優しい理想も。何も、何も、いらないから。俺はお前がいればいい。お前だけが。
濡れた髪に指を絡め、そのまま冷たい唇に口づけた。頭上から降り注ぐ冷たい雨が、髪を、頬を、心を濡らしてゆく。それを止める事が出来なくて、どうしようもなくなって、その唇に貪るようにキスをする。
「―――サザ……」
息をする事すらもどかしいと思えるほど唇を重ねあって、やっと唇を解く事が出来た。その瞬間に零れた声の音にまた。また、瞼を震わせるのを止められなくて。
「…ソーンパルケ……」
見上げた先にある深い碧色の瞳に自分だけが映っている事に安堵し、そんな風に思ってしまう自分の浅ましさに虚しくなる。どうして、と。どうしてこんなにも、と。
「何でだろうな。なんで俺はこんなにも――――」
考える事すら無意味だと思えるほどに、目の前の相手に恋焦がれている。それは甘い疼きとは違う、暖かい想いとも違う。もっと深く、もっと醜い、どうしようもない程の執着心。
「こんなにも『愛している』か?」
耳元で囁かれる言葉に震える瞼を止める事は出来ない。腰に廻された腕の強さに震える吐息を抑える事は出来ない。どんなに自分を抑え込もうとしても目の前の相手には、零れてしまう。溢れてしまう。どんなに、閉じ込めようとしても。
「…言葉で告げてそれで楽になれるなら…俺はいくらでもお前に言うのに…お前が好きだって。愛しているんだって……」
絡めた指先に馴染む髪の感触。吐息が掛かる距離で薫る微かな体臭。その全てがどうしようもない程に、欲しい。全てが、欲しい。
「…愛している…ソーン…愛している…愛している……」
「もっと言え、サザ。いや…言ってくれ……」
睫毛が重なりあう距離で、互い以外映し出さない瞳で、震える吐息で、告げる言葉はただひとつ。言葉にしても足りないこの想いひとつ。
「…愛している…お前だけ…お前だけ…愛している……」
降り注ぐ雨は冷たくて、どうしようもない程冷たい筈なのに。なのに熱かった。吐息も心も腕も身体も、全てが熱かった。
こんな風にしか愛を確かめ合えないふたりが不器用なのだろうか?それとももっと器用に愛せれば良かったのか?けれども他に思いつかなくて。他に考えられなくて。
「―――どうしたら私はお前の全てを手に入れる事が出来るのだろうな」
濡れた身体は冷たい筈なのに、こうして触れ合えば焼けるほどに熱くて。眩暈すら覚えるほど。
「…どうすれば…お前の心から『彼女』を消すことが…出来るのだろう…」
濡れた衣服の上から大きな手のひらが敏感な個所に触れる。布越しに触れられるだけで、吐息が乱れるのを止められない。知り尽くした指先が的確に感じる場所を探り当て、意識を溶かしてゆく。
「…消したら…俺じゃ…なくなる…っ……」
「―――分かっている…それでもそう願わずにはいられないのは、私のエゴなのだろうな…」
そう告げながら口の端を上げて笑みの形を作る唇が何故だかひどく憎たらしく思えて、強引に引き寄せ口づけをねだった。その唇は拒む事なく重なり、吐息の全てを奪ってゆく。
「…んっ…んんんっ…ふぅんっ……」
奪って奪われて、溶けあって。混じり合って境界線がなくなって、カタチが曖昧になって、そして。そして全てがぐちゃぐちゃになったならば。そうしたら、もっと。もっと、全てが伝わるのだろうか?
今ここに在る『俺』という存在を作り出したのがミカヤならば、今こうしてお前を好きだと思う気持ちの根本にあるのも―――ミカヤの存在なのだろう。けれどもお前を選んだのは俺の意思だ。お前を願ったのは、俺自身の想いだ。俺が欲しがった、お前だけを欲しいと願った。それは俺だけのものだ。俺だけの、自分勝手な想いだ。
「…ソーン…バルケ…もっと…俺に触れて……」
好きで、好きで、好きで。気が狂ってしまいたいと思う程に、どうしようもない程に愛していて。違う、愛なんてそんな生易しい感情じゃない。そんな優しく尊いものじゃない。もっと俗物的で、もっと厭らしくて、もっともっと醜いもので。
「…もっと…さわって…俺に…もっと…あっ…ぁぁっ……」
お前が知らない場所なんて何処にもない。俺という名のつくもの全てがお前に触れられ暴かれ、晒される。心の奥底に隠してきたものすら全て剥き出しに。
「―――サザ……」
喉元に口づけられる。そのまま噛み切ってくれたらいいのに。衝動に身を任せ、そのまま。そのまま食い千切ってくれたらいいのに。そうしたら俺はお前の腕の中に永遠にいられる。お前の中にはいってゆける。身も心も全てお前の中に。
――――身も心も全部。全部、お前という存在に浸されて、そして埋もれてゆきたい。
頭上から降り注ぐ雨がふたりを世界から隠してゆく。
「…っああっ!…あああっ…ソーンっ……」
ちっぽけな存在になって、誰にも見つからないように。
「…サザ…もっと私を飲み込め。食い千切るくらいに」
誰の目にも触れずに、ただのふたりになって、ぽつんと。
「…あああっ…あああんっ…ソーンっ…ソーンっ!!」
ぽつんと、この世界から、置き去りにされたらいいのに。
乱れる髪からぽたりと零れる雫が、目尻から落ちてゆく透明な雫と混じり合って零れ落ちてゆく。ぽたり、ぽたり、と。
なあ、なんで。なんで、こんなにも。こんなにも俺はお前が好きなんだろう?どうして他の誰かじゃ駄目なんだろう?どうしてミカヤがいるのに、俺はこんなにもお前に惹かれたんだろう?なあ、どうして?
―――――答えなんて初めから何処にもないのは分かっている。それでも問いかけずにはいられないのは俺の弱さで、俺の醜さだった。
何もいらないなんて、嘘。そんなのは嘘。俺はお前が欲しい。お前だけが欲しい。その綺麗な碧色の髪も、全てを見透かすその瞳も。口許に湛える穏やかな笑みも、少しだけ掠れる耳元で囁かれる低い声も。睫毛が触れ合う時だけに微かに薫る体臭も、抱きあう時だけ聴く事の出来る快楽の溜め息も。全部、全部、欲しい。
「…ソーン…俺の…俺だけの……」
廻した背中の広さと逞しさと、泣きたくなるほどの優しさと。その全てがもう俺にはどうしようもない程に、欲しくて欲しくて堪らない。
「―――幾らでも私はお前のものになる。だから、もう何も」
指を、絡める。繋がるぬくもりがただ暖かいだけならばよかった。それだけならば、こんなにも。こんなにも苦しくないから。こんなにも切なくないから。
「…何も、言うな。私以外の名前は……」
綺麗な碧色の瞳がそっと。そっと微笑む。それはひどく優しくて、ひどく苦しかった。泣きたくなるほどに、切なかった。