砂の薔薇



ふたりにだけに聴こえる砂の音に包まれて、ただ埋もれていたい。何もないこの場所でただふたりだけで。


しあわせはここに、在る。この手のひらにこの指先に。繋がったこの、指先に。伝わるぬくもりの暖かさに無意識に口許に笑みを浮かべれば、そっと唇が降りてきた。
「…ソーンバルケ……」
何時から名前を呼ぶことにためらいがなくなったのだろうか?何時からこうして自然にこの名前を呼ぶ事が出来るようになったのか。他の誰でもないこの名前を最初に。
「どうした?」
問いかけには答えずに手を伸ばしてその髪に触れた。指先に馴染む髪の感触がただ、ただ、嬉しかった。こうして自分の感触の一部になった、この手触りが。
「―――好きだ」
そして告げる事が出来るこの言葉が。迷うことなく告げられるこの言葉の意味が、何よりもしあわせだと思えるから。他の何よりも、しあわせなのだと。
「そうか、それは偶然だな。私も―――」
同じ気持ちだという言葉の代わりに再び降りてくる唇の感触が泣きたくなるほどに、しあわせだった。しあわせすぎて、泣きたくなった。


きっともう理由なんて意味のないものなのだろう。思考すらも無意味なものなのだろう。考えることよりも先に身体が動いた以上。気持ちよりも先に心が動かされた以上。後でどんな理由を述べようとも、いい訳を告げようとも、その全てがもう。もうきっと全部ただの『言葉』でしかないのだから。
「俺はもう何処にも行かない。ずっとお前のそばにいる」
こんな風に想いを伝えても、全ての感情を表現出来はしない。どんなに俺がお前を好きで、お前をどうしようもない程に想っているのかを。それでも伝える手段が言葉しかないのならば、俺は不器用でもそれを今お前に伝えたいと思った。全てが伝わらなくても、剥き出しの感情の全てを見せつける事が出来なくても。それでも、今こうして言葉にしたいと。
「何処にも行かない。俺がお前を選んだんだ。お前だけを」
「分かっている」
「だから、俺を手放すな。どんなになっても俺を」
溢れてくる。零れてくる。俺という存在全てから、お前への感情が。それは憧れであり、想いであり、恋であり、憎しみであり、愛であった。全ての感情がお前へと向けられる。それは全然綺麗なものじゃないけれど、それでも本当の俺の気持ちだった。俺自身の想いだった。
「離す訳がないだろう。私がどんな想いでお前の手を掴んだのか分かるか?ミカヤの手からもぎ取ったのか…分かるか?」
閉鎖されたふたりだけの優しい空間から、お前は強引に俺を引き上げた。そして知った世界は決して優しいだけのものではない。暖かいだけの、心地よいだけのものじゃない。それでも俺にとっては必要なものだった。他の何よりも必要なものだったんだ。
「うん、分かっている。分かっている…だから……」
噛みつくように唇を重ねて、貪るように吐息を奪い合った。それは決して優しく甘いものじゃない。けれども俺にとっては必要だった。俺にとっては何よりも欲しいものだった。


――――傷つく事も、傷をつける事も、自分の中に消えない罪を撃ち付ける事も全部。全部、自分が選び取ったものだから。


綺麗な想いだけならば、この手を必死で掴まなかった。優しい想いだけならば、今この場所に自分はいなかった。―――ここには、この腕の中には。
「…何で俺…こんなにもお前が…好きなんだろうな……」
繰り返し自らに問いかけた疑問に答えは出なかった。きっとこの命が尽きて肉体が滅びても、その回答にはありつけないだろう。思考とは違う場所でこの想いは走り出したのだから。
「…どうしてお前じゃないといけないんだろうな…お前じゃなきゃ…駄目なんだろうな……」
他の誰でも駄目だった。隊長でもミカヤでも駄目だった。この心の奥底を突き動かす想いを与えた相手はただひとり、目の前の相手だけだった。―――お前だけ、だった。
「残念だがその問いには私は答えられない」
「…うん、分かってる…分かってる…それでも聴いてみたかった…」
背中に廻された腕の力が強くなる。掻き抱かれる瞬間一番。一番想いが伝わっているような気がした。気のせいかもしれないけれど、こうして熱が伝わる瞬間が。



「――――答えられない…私にとってもお前はそういう存在だから」



気の遠くなるほどの長い『生』の中で、最期に辿り着いた場所がここだった。この幼さの残る翠色の瞳を持つ、少年のそばだった。この翠色の瞳だけが、私をここまで辿り着かせた。歩みを、止めさせた。
「―――サザ…私のものだ……」
お前がいればいい。この腕の中にお前という命が在ればいい。ただこのぬくもりがこの場所に在りさえすれば、私はここまで生という迷路を彷徨い続けた意味を見いだせる。お前がここに、いてくれれば。
「…うん、ソーンバルケ…うん……」
愛しいという感情が何時しか激しい欲望となり、様々な感情が混じり合って噴き出した。その衝動の先に在ったものは、ただひとつ。ただひとつ、愛だけだった。

優しさも愛しさも、欲望も劣情も、痛みも罪も苦しみも、暖かさも恋しさも、全て。全てが。

今はただ。ただ穏やかだ。激しい嵐の後の静寂のように、ただ。ただ静かな水面があるだけだ。けれどもそれは底のない海で、永遠に溢れだす想いで。溢れて零れて広がる感情で。
「…私だけのものだ……」
その全てがお前に注がれる。私の全ての水が、お前の中に注がれてゆく。溢れても零れても、全てが。


―――それは永遠の砂の中に咲く一輪の薔薇。砂の薔薇。


衝動と静寂は同じものだ。激しさと穏やかさは同じものだ。向けられる相手がただひとりである以上、それは同じものなんだ。同じ想いなんだ。
「―――うん、ソーンバルケ。俺はお前だけのものだ」
繋がる指先、重なる睫毛、触れる唇。貪る舌と、掻き抱く腕が。静寂と衝動と、激しさと穏やかさと、その全てが。


――――ただひとつ愛という想いになる。それだけに、なる。