遠くから聴こえるのは、水の音。砂の中にひとつ落ちた、水の音。
「…永遠など、どこにもないよ。それでも私はどこかでそれを探している、ずっと」
近くにいるのに何故か、その声は遠くから聴こえた。こんなに近くにいるのに。こんなにそばに…いるのに。
「――お前は、よく分からない」
目の前の存在を確認したくて、サザは重たい瞼を開いた。そして確認する。目の前にある、碧色の瞳を。全てを見通すような、それでいてその先を決して見せることのない、ここにしかない双眸を。
「何が、分からないんだい?」
穏やかな声。何時も、そうだ。どんな時も揺るぎなく、どんな瞬間も変わることない、穏やかな声。それが嫌だった。いつでもどんな時でも、変わらない彼が。どんな時でも穏やかで決して平常心を失わない彼が。
それが嫌で、いつもどうしようもない子供じみた我儘を言っている気がする。
「…何で、俺なの?」
瞼以上に重たい上半身を起き上がらせて、隣に寝転ぶ男の顔を見下ろす。碧色の瞳に自分の顔が映し出される。その顔がどこか淋しげに見えるのは自分の気のせいじゃ…ないのだろう。きっと、気のせいじゃない。
「何で俺を、構うの?」
今更こんなことを聞きたいわけじゃなかったのに、気づいたら言葉にしていた。気づいたら…問いかけていた。答えなんてどこにもないはずなのに。
「今私がその答えをお前に告げても、きっとお前は納得しない。だから言わないよ」
はぐらかされるのは分かっていた。答えてくれないのは、分かっていた。だって自分がそれを望んでいないから。だって答えなんてない。もしもあるとしたら。あるとしたら、全てが終わるその瞬間だけだ。
「――ソーンバルケ」
「ん?」
「…嘘でいいから」
綺麗だと、思う。目の前の男は、すごく綺麗だと。それは決して女に使う『綺麗』じゃない。でも、綺麗だ。その碧色の瞳が、綺麗だ。そのしなやかな指先が、綺麗だ。無造作に伸びた髪の先すらも、綺麗だと思う。
「俺を好きだって言って」
全てが綺麗すぎるから、遠い。自分のようなただのちっぽけな子供から…ずっとずっと、遠い。
一面の砂の中で、一滴の水がぽたりと落ちる。
ぽたりと、落ちる。そこから。
そこから、浸透した水が。一滴の水が。
そっと広がってゆく。気づかない間に浸みこんでゆく。
ゆっくりと、静かに。けれども確実に。
いつしかその水は身体から溢れ出し、全てを浸すのだろう。
そして。そして、全身を埋めて。
―――どこにもないはずの場所に、私を沈めてゆく。
「好きだよ」
こうして瞳を見つめているのに。指先に肌が触れているのに。体温は伝わっているのに。なのにどうして。どうしてこんなにも遠いのだろう。どうしてこんなにも遠くから声が聴こえるのだろう。
「嘘つき」
声が、遠いから。それが嫌で、唇を塞いだ。唇から触れあえば、もっと近くにいけるかと思って。もっとそばに…いけるかと思って。けれども、遠い。触れ合ったぬくもりは暖かいのに、唇の感触はこんなにもそばにあるのに。とても遠い場所に、彼は、いる。
「――嘘だと思うのは、お前がそう決めつけているからだよ」
唇を離して瞼を開ければ、何時もの碧色の瞳。いつでもどんな時でも変わらない穏やかな瞳。
「だったらなんで―――」
……なんで、いつも。いつも、同じなんだよ。誰にでも向ける顔を。誰にでも向ける顔でしか、俺を…見ないんだよ……。
俺に最初のぬくもりを与えてくれた相手は、いつしか俺のほうが与える側になっていた。
俺を護ってくれた背中は、何時しか俺が包み込めるほどに小さなものへとなっていた。
いや、ちがう。俺だけが大きくなっていた。ミカヤは変わらないのに。俺だけが。俺だけが成長した。
俺を包み込んでいた大きく温かい手は、何時しか俺の手のひらにすっぽりと納まるようになり。そして。
そして、気がついた。同じ時を生きてゆくことはできないのだと。同じ時を刻むことが出来ないんだと。
それでもそばにいた。それでもそばにいる。それが俺が出来るただひとつのことだから。ミカヤにとって、俺がしてあげられる。
でも。でも、そんな想いとは別の場所で。どうしてだろう。どうしてなんだろう。揺るぎないこの想いとは別の場所で。
――――どうして、こんなにも。こんなにもお前が…欲しいの?
「好きだよ、サザ」
永遠なんてどこにもないんだ。それは俺が一番知っている。
だってあれほどミカヤのためだけに生きると決めた俺が。
この俺が、お前に惹かれている。こんなにも焦がれている。
あんなにも強い想いすら上書きされてしまった、この気持ちは。
このどうにもできない気持ちは。やっぱり。やっぱり、きっと。
きっと、いつかは心の奥に沈んでいくのだろう。
だからどこにも永遠なんて、ないよ。探したって、見つかりはしないよ。
不意に手が、延ばされた。ソーンバルケの手がサザの髪に触れて。触れて、そのまま胸元へと抱き寄せた。そこから聴こえるのは命の音。とくん、とくん、と聴こえる命の音。
この音が自分だけのものだったら。自分だけが独占出来たならば。そうしたら、飢えにも似たこの想いは満たされる?
「お前が私の言葉を信じないのは、私がそう願っているからだ。お前が答えを望まないのと同じだよ」
足許から広がった水は、何時しか全身を沈めた。
もがいてもあがいても逃れられない場所に私を沈めた。
だからこのまま。このままこの水に流されよう。
一面の砂の中から零れおちた一滴に。
――――『想い』という名の、その水の中に。
「答えをくれないのは、お前だろう?」
想いの雫が降ってくる。髪に、瞳に、唇に。
「答えたら、全てが終わる。それを私は望まない。そして」
そっと、降ってくる。余すとこなく、全て。
「そして、知っている。お前は私から離れられないことを」
その想いの雫に全てを埋められて、そして絡めとられて。
「私から…離れられないだろう…お前は」
絡めとられて、そして溺れてゆく。戻れない場所へと。でも。
でも、どうしてだろう?戻りたいと思わないのは。ずっとここにいたいと、願うのは?
「…離れられない…ああ、そうだ。俺はお前から、離れられない」
知ってしまったこのぬくもりを。包み込まれることの心地よさを。護られることの安らぎを。抱きしめられて初めて知った。夢すらみずに眠れる夜が存在するということを。
「…この手、離したら俺は…」
ミカヤの指先に結ばれていたはずの手は、今ここにある。この大きな手の中に包まれている。傷だらけの節くれだったこの手のひらに。
「俺は、どうなっちまうのかな?」
自虐的に微笑ったサザの顔をいつもの穏やかな笑みで包み込み、ソーンバルケはその唇を塞いだ。そして腕の中に抱きしめる。まるで子供をあやすような、優しさで。その穏やかさにサザは安堵し、その一方で泣きたくなるほどの切なさに襲われる。それはこの腕の中にいる限り、永遠に続く矛盾した感情だった。この腕の中にいる限りの逃れられない想いだった。
――――愛しているよ、と。告げた瞬間に、全てが終わる。
お前の最期の逃げ場所を私は奪えない。
奪ってしまえば、お前は壊れてしまう。
護るべき存在と、帰る場所がお前にある限り。
私はお前の全てを奪えない。それだけが。
それだけがどうしても、出来ないことなんだ。
「…離さないよ、だから安心して、ここにいればいい……」
永遠なんて、どこにもないと。どこにもないとお前に告げることしか出来ない。今私の腕の中にそれがあるとしても。今ここに、在るとしても。