傷口




「痛っ―――」

唇からひとつ零れた悲鳴に振り返れば、その白い指先から一筋の紅い糸が滴っていた。そのまま無造作に振り払う手を掴みゆっくりと口に含んだ。舌先で紅い液体を掬い取り生まれたばかりの傷口を舐めれば、口中に広がるのは鉄の味。
「大丈夫か?」
指を口に含みながら軽く歯を立てながら言葉を紡げば、微かに震える睫毛が視界に映った。見かけよりもずっと。ずっと長いそのまつ毛が。
「平気だ、こんなの…お前過保護すぎだ」
それを悟られたくないのかきつく瞼を閉じると、顔を横に背けた。そうすると年相応の顔になるなと思いながら、しばらくその様子を眺めていた。口許にひとつ、笑みを浮かべながら。
「…な、なんだよ……」
その視線に気付いたのか、この状況が居心地悪かったのか、瞼が開かれ翠色の瞳がこちらに向けられる。上目遣いに挑むようなその瞳は、けれどもそれ以上に。
「いや、こうして見るとお前も年相応の顔をするな、と」
「―――ガキって言いたいのか?」
「いや、そういう事じゃない」
それ以上にもっと深い場所を見ようとする瞳で。もっと奥底を探るような瞳で。一番深い場所を捜す瞳で。
「お前はそんな顔すらも簡単には出来なかったのだろうなと思っただけだ」
「ソーンバルケ」
濡れたままの指先が唇をなぞってゆく。少しだけ乾いていた唇は、自らが湿らせた唾液とまだ止まることなく滴る紅い液体で潤されてゆく。
「ガキの俺も好きか?」
「それは愚問だな。私の答えなどお前には嫌になるほど分かっているだろう?」
「それでも聴きたい。言ってくれ」
唇をなぞっていた指先は何時しか頬に滑ってゆく。輪郭を辿り、まだ冷たい頬を撫で、そのまま。
「好きだよ、サザ」
「もっと、言ってくれ」
「―――愛している」
そのまま求める答えを紡ぐ唇を引き寄せ、己のそれで塞いだ。触れ合った唇はもうすでに重ね合った口づけと同じように熱くて溶ける程、だった。


あの頃よりもずっと背は伸びて、視線は屈まずとも重なり合うようになった。肉付きのよくない痩せた身体も、今は年相応の筋肉がつきまるでしなやかな獣のようだった。それでもこうして腕を伸ばして抱きしめれば、簡単に身体はこの中に閉じ込める事が出来る。
「俺もお前みたいな身体だったら、剣を握れたのにな」
覆いかぶさってくる相手の胸元に手を伸ばし、慣れた手つきでひとつひとつ上着のボタンを外してゆく。その手の動きを見つめながら思いだす会話があった。あれは始めて身体を重ねた日、こうして器用に外してゆく指先の動きを訝しがった瞬間、告げてきた言葉。

『―――慣れている、とか思っている?…でもこんな事をするのはお前が初めてだ』

理由を尋ねる前に理解した。彼の生い立ちを思えば手先が器用な事は、当然なのだ。身体を売らない代わりに心を売って生きてきた。盗賊として他人の金銭を盗み、綺麗な手を穢して、自らの心を穢して。身体を穢す代わりにも心を穢した。ただそれだけの違いだ。けれども今その事実を浅ましくも喜んでいる自分がいる。そう、この身体を知っているのは…自分だけだという事実に。
「そうしたらもっと。もっと俺は自分を誇れたのに」
指が胸元を滑ってゆく。弾力のある胸板の感触を指先で楽しみながら、自らの薄い胸とは違うソレに舌を這わした。微かにそこからは汗の匂いがして、ひどく雄を感じた。
「剣など握らずとも、お前には誇れるものがある。それは私が何よりも知っている」
手を伸ばし目の前にある翠色の髪をそっと撫でてやる。それに答えるように舌の動きが激しくなる。強く逞しい肉体を求め堪能する舌が。
「…ソーン…あっ……」
髪を掴みその顔を自らへと引き上げる。名残惜しげに離れる濡れた舌と、濡れた瞳が露わになる。夜に濡れた、瞳が。
「お前はもう俯く理由などない。私とともにいるという選択をした時から。お前はもう這いつくばる必要はないのだ」
噛みつくように口づければ、夢中になって唇を求めてくる。自ら積極的に舌を絡め、何度も何度も角度を変えながら口付けを貪ってくる。それに答えるように唇を自由にさせてやりながら、身に着けていた衣服をはぎ取った。まだ何処か少年の瑞々しさを残す肌に、指を這わす。指先に馴染むその肌に。
「…んんっ…はぁっ…んんんっ……」
唇を重ねたまま、胸の突起を嬲った。尖った乳首に指を這わし、そのまま捏ね繰り回してやる。そのたびに腕の中の身体がびくんと跳ねた。
「…サザ……」
「…ソーン…はぁ…ぁ…んっ!……」
与えられる刺激にきつく瞼を閉じ目尻から生理的な涙を零す相手を、薄く目を開きながら見つめる。それはひどく欲情を誘う表情だった。
「私だけを見ていろ」
唇を離しのろのろと開かれる瞼を見つめながら、告げる言葉はただひとつ。ただひとつ、これだけだ。
「…ソーン……」
「ずっと、私だけを見ていろ」
夜に濡れた瞳でそれでも目の前の相手を必死に捉える。逃したくないから、必死に捉えて。そして。
「…そんなの…お前に出逢った時から…ずっとだ…ずっと俺は…お前だけを見ている……」
そして喉の奥から告げる言葉は、痛いほどむき出しになったただひとつの本当の事だった。



許されないと思っていた時から、理屈ではいけないと分かっていても、それでも。捉えられた瞳は逃れる事は出来なくて。盗まれた視線はただひとつ。ただひとつ、お前だけを。


傷口が、開いた。ぽたりと、指先から零れる紅い液体。けれども構わずに、触れる。触れたかったから、欲しかったから、だから。
「…ソーン…コレが……」
手のひらで包みこんでやればソレはどくどくと熱く脈を打ち、収まり切れないほどの巨きさと存在感を伝えてくる。
「―――欲しいのか?」
囁かれる言葉にこくりと頷き、そのままソレを口に含んだ。口の中いっぱいに広がるその熱を夢中になって舐めた。喉の奥に届きそうなほどの圧倒的な存在感に眩暈を覚えながら。その激しい熱に貫かれる瞬間を想像してぞくぞくと身体の芯を震わせながら。
「もう、いい。おいで」
そっと髪を撫でる手のひらに導かれるように顔を上げれば、そこにあるのは絶対的な碧色の瞳だった。そこには迷いも揺らぎもなくただ静寂だけがある。こんな場面ですら揺るぐ事のないものが。
「…ソーン……」
腰に手が廻されて、そのまま膝の上に乗せられる。こうして向き合う瞬間が好きだった。どんな瞬間よりも、幸せだと思えるから。
「そのまま腰を降ろせ―――出来るな?」
命じられた言葉にこくりとひとつ頷き、そのまま肩に手を掛け、腰を浮かせた。双丘の入り口にソレを宛がってゆっくりと身を沈めてゆく。
「――――!くっあああっ!!」
ずぶずふと濡れた音ともにソレが挿ってくる。硬くて巨きく熱いソレが。圧倒的な存在感で俺の中に挿ってくる。
「…はぁぁぁっ…ぁぁっ…あぁぁっ!!」
喉をのけ反らせて喘げば、噛みつくように喉元に口づけられた。そこから広がる痺れが、睫毛を震えさせる。こころを、震えさせる。
「…くふっ……ふっ…はぁぁっ………」
全てを飲み込み、一旦動きを止め重たい瞼を開いてその顔を見つめた。見たかったから、見た。どうしてもお前の顔を見たかったから。
「…ソーン…俺……」
肩に食い込ませた指からまた血が溢れてくる。けれども構わなかった。爪が食い込むほどにその肩にしがみ付く。だってこの場所は。ここは、俺だけのものだから。
「…お前を…ずっと…見てゆく…お前が好きだから……」
俺だけのものだ。俺だけのひとだ。そうだ、いいんだ。俺はお前を独りいじめしても。ひとりいじめして、いいんだ。
「―――ああ、私も。私もお前を愛しているよ」
「――――!んんんんんっ!!!!」
唇が重なって、そのまま下から突き上げられる。激しく腰を揺さぶられ、堪え切れずにきつく。きつく、背中にしがみ付く。俺だけの場所に。俺だけが傷をつけていい場所に。
「…ソーンっ…ソーンっ…あぁぁっ…あぁぁっ…んんっ…んんんんっ……」
上も下繋がって、全部繋がって。身体の境界線が分からなくなるくらいにぐちゃぐちゃになって。そして。そしてひとつになれる瞬間が。
「…出すぞ…サザ……」
「―――!あああああああっ!!!!」
その瞬間が、俺から『孤独』というものから解放した。もうその意味すらも思いだせないほど、お前は俺の中に注がれる。溢れるほどに、注がれる。


「…傷だらけのお前の指が…私には何よりも愛しいものだ……この傷こそがお前という存在を作ってきたものなのだから……」


指先に滴る血に舌を這わせて、そのまま愛しげに指先に口づけの雨を降らす。それが泣きたくなるほどの優しさで。―――優し、過ぎて。


訪れるまどろみの中で見る夢がただひたすら優しいものであればと願った。ただそれだけを、願った。