Shadow of Love




離したくないのはこの絡めた指先と、きつく結んだ心。これだけがあれば、いい。俺はそれだけで生きてゆける。


――――好きという想いと、愛しているという気持ちが溢れて、零れた……


前髪を掻きあげて、隠されている印を暴く。それに指を這わしてそのまま唇を落とせば、口の中に広がるのは甘い疼きだった。
「どうした?サザ」
名前を呼ばれて答えるよりもその広い胸に顔を埋めて、そのままきつくしがみ付いた。そんな自分の動作に頭上から苦笑混じりの溜め息が零れてくる。それすらも自分だけのものだと思ったら、どうしようもない優越感に満たされた。
「…寒いからお前にひっついた」
「―――何だ、それは…子供みたいだな」
苦笑なのか柔らかい笑みなのか声だけでは判断出来なくて顔を上げたら、思いがけず優しい瞳にかち合った。そんな瞳で見つめられるのが何だか居心地悪くて視線を外せば、そのままそっと髪を撫でられた。そして。
「でも悪くない。そんなお前も可愛いな」
そしてそのまま大きな手のひらが頬を包み込み、そっと顔をこちらへと向けさせる。そうすれば先程よりもずっと優しい瞳がそこに在った。
「……可愛いって言うな…お前が言うと何か変だ……」
「お前が私を変にさせたのだ。責任は取って貰うぞ」
口許が笑みの形を作る。その口許が好きだ――――そんな事を思っていたら、唇がそっと降ってきた。甘く溶けるようなキスとともに。


贅沢なほどの幸せな日々。溢れるほどの笑顔の日常。それがこんな風に自分に与えられる日が来るなんて夢にも思わなかったから、どうしていいのか分からなくて戸惑った。けれどもそんな戸惑いすらもこの碧色の瞳は消し去ってくれる。それ以上のものを自分に与えてくれるから。―――しあわせすぎて怖いなんて言ったら…笑われるだろうか?
「ソーンバルケ」
「何だ?」
名前を呼ぶだけで口の中に広がるこの甘さが、何時しか何よりも心地よいものになった。ただこうして名前を呼ぶだけで満たされる想いが。
「俺もお前のせいで、どうしようもなく甘ったれた人間になった。責任取ってくれ」
「確かに出逢った頃は全身毛を逆立てた猫のように廻りを警戒していたが、今はすっかり懐いた子猫だな」
「そうだよ、俺はお前にだけに喉を鳴らす猫だ」
にゃあと呟きそのまま首筋を甘噛みした。昔ならこんな子供染みた馬鹿な事をやるのはカッコ悪くて出来なかったのに、今はこんな子供みたいなくだらないことがしたくて堪らなかった。それはきっと子供染みた我が儘も悪戯も全部、この腕が受け入れてくれるから。
「ああ、私だけの可愛い猫だ」
髪を撫でてくれる指先も、背中を撫でる手のひらも、全部。全部、俺だけのもの。俺だけの人。それがどんなに贅沢な事なのかは、誰よりも自分が一番知っているから。


触れて離れるキスを繰り返して。
「―――好き、ソーン」
何度も何度も飽きることなく繰り返して。
「ああ」
そうして、伝える想いが。告げる気持ちが。
「大好き。お前だけが」
溢れて、零れて、そして広がってゆく。
「知っている―――私もそうだから」
ふたりの廻りにそっと。そっと、降り積もる。


―――――こんな風に愛だけに埋もれて生きてゆく事が出来るなんて、夢にも思わなかった……


頬を包み込む手のひらの大きさがただひたすらに優しかったから、この瞬間に俺は死んでもいいと思った。馬鹿みたいにそれだけを思った。この何よりもしあわせな瞬間に。
「ありがとう、俺を見つけてくれて」
けれどもそれ以上に願うものがある。お前をもっと見てゆきたいと。誰よりも近い場所でずっとお前だけを見つめてゆきたいと。だから生きたいと思った。生きてゆきたいと。
「―――サザ」
「ちっぽけで小汚いガキの俺を見つけてくれてありがとう」
初めて言葉を交わした日から、ずっと遠い場所まで来てしまった。ミカヤ以外の世界を知らなかった俺の手を引っ張り、違う世界へと導きだした手。広い世界を教えてくれた手。知らない事を哀れだと言い、知ろうとしない事は罪だと教えてくれたただひとつの手。
「お前がいなかったら、俺はずっと知らずにいた。人を愛するという事を、誰かを傷つけても自分の意思で選び取るという事を…そして俺が生きているという意味を」
優しく暖かく閉鎖されたミカヤのふたりだけの世界。悩む事も考える事もせずにただ『ミカヤを護る』それだけの為に生きて居た日々。それは確かに幸せだった。けれども進めなかった。前に進む事が出来ずに、ただ生温い箱庭の中に居ただけだった。
「それは私だけのせいではない。お前が前に進めるように背中を押してくれたのは『ミカヤ』だろう?」
ああそうだ。お前が俺の手を取り、ミカヤがもう一方の手を自ら離してくれたから…俺はここに居る。お前のそばにいる事が出来る。こうしてともに生きてゆく事が出来る。
「それでもお前が見つけてくれた。俺すらも閉じ込めて封印していた心の声を聴いてくれた。俺の中の矛盾を暴きだして、そして全部受け入れてくれた」
一番深い場所に在った願いを、押し込めて閉じ込めて忘れようとした想いを、暴きだしてくれた。淋しくて、どうしようもなく淋しかった俺の心を。
「―――お前が私を真っ直ぐに見つめてきたから……」
「…ソーン……」
「逸らす事なく見つめてきたその瞳に在った淋しさに気付いた瞬間、私はお前の手を取っていた。その手を取ったらお前は握り返してきたから…だから離せなくなった」
初めて指を絡めて眠った夜。夢すら見ずに眠れた夜。不安も警戒も怯えもなく、眠りを貪った夜。身体を丸めずに眠れる事を知った夜。その瞬間きっと俺はこの手を離す事が出来なくなった。どうやっても手放すことが出来なくなった。
「指を絡めたらどうしようもない愛しさが込み上げてきた。抱きしめたら、心の奥から欲望が湧き上がってきた。そうしたら、止められなくなった――――お前が欲しいと…お前だけが欲しいと」
「…俺も…欲しかった…お前だけが…生まれて初めて自分から欲しいと思ったのはこの手だった」
頬を包み込むお前の手に自らのそれを重ねれば、そこから伝わるのは優しすぎるぬくもりで。泣きたくなるほどの優しい暖かさで。
「…好きだ、ソーン…愛している……」
「もっと言ってくれ」
「…愛している…お前だけを…愛している……」
「―――ありがとう、サザ」
唇が降りてくる。髪に額に瞼に頬に、そして唇に。たくさんのキスの雨が降って来て、俺はそのたびに瞼を震わせた。―――心を、震わせた。



「お前の口から聴きたかった。その言葉を、ずっと聴きたかった…愛している、と…そう……」