柔らかな日差しが瞼の上を通り過ぎる。その光が見たくて薄く目を開いたら、睫毛の先にひとつ唇が落ちた。
「―――目が覚めたか?」
囁かれるように落ちてくる声に、答える代りにその背中に腕を廻した。その広い背中に触れるだけでひどく安心出来るのはどうしてだろうか?そんな事をぼんやりと考えていたら、唇をひとつ、塞がれた。
「…ソーン……」
「どうした?まだ寝ぼけているのか?」
唇が離れたと同時に無意識に胸に顔を埋めていた。ぬくもりから、離れたくなくて。子供みたいに顔を摺り寄せたら、くすりとひとつ微笑われた。
「寝ぼけているかも…俺…だからお前に甘えている……」
「何だ、それは…でも甘えられるのは大歓迎だ。こんな風に、な」
大きな手のひらがそっと髪を撫でてくれる。その手が何よりも大切だ。こんな風に全てを包み込んでくれる手のひらを、自分はずっと知らずにいた。こんな風に何もかもを包み込み、護ってくれる手のひらを。
「…お前の匂いがする…大人の匂いだ……」
埋めていた胸から顔を上げてかち合う瞳を見つめれば、思いがけず優しい碧がそこにあったから。だから迷うことなくキスをした。自分から、唇を重ねた。
――――しあわせは、今ここに在って。この手のひらの中に在って。
初めて自分に差し出された手は、とても綺麗で儚いものだった。ちっぽけな俺の手を包み込み護ってくれた手。けれども何時しかその手のひらは、俺が包み込めるほどの小さなものになっていた。俺の方がずっと大きな手のひらになっていた。俺の方がずっと大きくなって、俺の方がずっと力が強くなって、けれども俺は子供だった。どんなに見かけが大きくなろうとも、どんなに背が伸びようとも、俺の心はずっとちっぽけな子供のままだった。
―――それでも護りたい人がいた。それでも護らなければならない人がいた。
だから大人になった。必死になって大人になった。心が追い付かなくても、それども大人への階段を駆け上がった。内側に抱えた矛盾を押し込め前に進んだ。そうする以外の方法を知らずに、そうする事が当然だと思った。自分の大切な人を護る為には大人になるしかないと、それしか思いつかなかった。けれども。
『――――私の手を取れ、サザ。お前の全てを私が壊してやる。そして私の全てで…お前を護ろう』
泣きたい時に泣いていいのだと、辛い時にはそれを言葉にしていいのだと。抱え込んだ矛盾を吐き出して、そして子供のように泣いていいのだと。その手に甘えていいのだと、その腕に頼っていいのだと。その全てをお前は俺に教えてくれた。
――――お前の手が、俺を連れてゆく。知らなかった場所へ。知りたかった場所へ。
唇が離れても背中に廻した腕は離さなかった。このぬくもりをずっと感じていたかったから。だから、しがみ付いていた。
「汗をかいているな。前髪が濡れている」
大きな指先が前髪を掻きあげそのまま額に唇を一つ落とされた。そこから広がる甘い痺れに瞼をひとつ震わせながら。
「…誰のせいだよ……」
「私のせいか?」
からかわれるように背中を撫でられ、ぞくりとした。昨夜散々身体を重ね欲望を吐き出したのに、こんな風に触れられるだけでじわりと熱が這い上がってくるのを止められなくて。
「―――お前のせいだ、だから責任取れ」
「随分と我が儘を言うようになったな…まあそれすらも…」
愛しいものだ、と唇の動きが伝えてくる。それを見届けて瞼を閉じれば、そっと。そっと唇が塞がれる。こんな風に何度も何度でも、キスをしていたいと思った。馬鹿みたいにずっと、口づけを交わしていたいと…思った。
歩けるからと言ったのに『いいから甘えろ』の一言で抱きあげられて、そのまま浴場へと連れて行かれた。汗ばむ身体を洗われてそのまま湯船に沈められる。背後から抱きかかえられるように浴槽に沈めば、ぽちゃんっ、とひとつ飛沫が飛んだ。
「俺、相当お前に甘やかされている気がする」
指を、絡めた。湯船の中でその指先は繋がる。柔らかく結んで、重なっているという事実に心が安らいだ。指先が、繋がっているんだという事に。
「構わないだろう?今まで甘える事すら知らなかったのだから。だから私が存分にお前を甘やかしてやる」
告げられた言葉が可笑しくて、けれども嬉しくて、だから笑った。声を出して笑って、そして。そして顔を上げてお前を見つめた。その碧色の瞳に自分だけが映っているのを確かめながら。
「でも甘やかせすぎだ…俺つけあがるぞ」
「ほう、どんな風につけあがるのだ?」
映っている。その瞳に映っているのは、俺だけだ。今まで数え切れないものを映しだしてきた瞳。これから先も無数のものを映しだしてゆくであろう瞳。けれども、今この瞬間は俺だけを映していてくれる。俺だけを、見つめてくれる。
「お前がどんな事でも叶えてくれるって」
「お前の望みならどんな事でも叶えるぞ…私と離れる以外にはな」
ぽたりと、お前の髪先から水滴がひとつ落ちた。それが俺の頬に伝ってゆく。それすらも欲しくなって舌で舐め取ったら、そのままきつく舌を吸われた。
「…なら…ずっと……」
絡めあって、離して。また絡めあって。何度かそんな事を繰り返せば自然と息が上がってゆく。それでも止められずに何度も唇を弄った。舌を貪った。
「…ずっと…俺だけ…見ていて…死ぬまで…」
「違う、死んでもだろう?―――私と言う生が尽きるまで…いやその先までも望むのだろう?」
「…うん…お前の中に俺以外の存在が入るのは嫌だ…どんなになっても俺だけを」
俺は我が儘で、俺は欲張りで。どうしようもない程に貪欲で、強欲だ。お前に関しては、驚くほどに自分を抑えられない、止められない。でも、それは。
「―――見ている、そして想っている」
それは、それすらもお前は赦してくれるから。俺の尽きる事のない欲望を、止める事の出来ない願いを、その全てを叶えてくれるから。
「私を見くびるな、サザ。私がお前を欲しいと思った。手に入れたいと思った、だから離さない。どんなになっても私の全てはお前のものだ。そして」
俺の望む答えを。俺が欲しがっているものを。その全てを与えてくれる。溢れるほどに、不安と言う言葉すら打ち消すように。
「――――そしてお前は、私だけのものだ」
うん、お前は俺だけのものだ。そして俺はお前だけのものだ。与えて、与えられる。同じだけのものを奪って奪われる。それがどんなに幸せな事なのか、お前に出逢うまで俺は知らなかった。
――――与えてもらったものを必死に返す事しか知らなかったから。ただ必死になって返す事しか知らなかったから。
泣きたくなるほどのしあわせを、お前は俺にくれたから。
「…好きだ、ソーン…お前だけが……」
隙間すら何処にもなくなるくらいの想いを、注いでくれたから。
「ああ、サザ。私もだ」
俺という器は満たされ、溢れるほどで。だから。
「――――愛している、サザ……」
だから、俺は『不安』すらなくなるほどにお前だけを想っている。
――――お前のいる世界に俺がいられる事が、何よりものしあわせだった。お前の手のひらがここに在る事が何よりもの喜びだった。
「…俺もだ…俺も…お前を…愛している…ソーンバルケ……」