睫毛が触れたその瞬間にそっと口の中に広がったほろ苦い想いの名前が、どうしても思い出せなかった。
何もいらないなんて、そんなのはただの綺麗事でしかなくて。そんな事よりも、もっと。もっとどうしようもない程に欲しくて堪らないものがあったから。だから手を伸ばした。この手を、伸ばした。触れる為に、その心臓を鷲掴みにするために。
「―――何でなんて、そんな事考えるのはもう止めた。俺は」
触れる、その髪に。触れた、その頬に。伝わる体温が命の証だと確認して安堵して、そして嫉妬する。お前を取り巻く全てのものに、無駄でしかない感情を抱え込みながら。
「俺はお前が好きなんだ。お前に恋焦がれたんだ…きっとそれだけだ」
「それだけでいいのか?」
大きな手のひらが優しく髪を撫でる。こんな時にどうしてお前はひどく優しくするのだろう。もっと乱暴にしていいのに。もっと酷くしていいのに。
「いい、もう。もうそれだけで…いい…だから……」
その瞳に映すのは俺だけにしてくれなんて、そんな甘い我が儘なんて願わない。だから、俺の瞳に映るものはお前だけにして。それだけに、して。
「―――愛している、サザ。お前だけを」
降り積もる言葉はただ静かに優しい。けれども知っている。その中に含まれる逃れようのない甘い毒と、抗う事の出来ない甘美な疼きに。抵抗する事も拒絶する事も無駄だと気付いたその瞬間に、この毒に犯され捕えられる事を望んだ自分がただそこに在るだけで。ただ、それだけで。
「うん、俺も。俺もお前だけを…愛している…ソーン……」
何よりも綺麗で残酷なその碧色の瞳をこめかみの裏に焼き付け、そのまま。そのまま貪るように口づけた。貪られ食らい尽くされたいと、心の奥で願いながら。
欲望にきりがないと知ったのは、お前に出逢ってから。諦めるという言葉の意味を理解出来なくなったのは、お前を好きだと気付いた時から。自分の心の奥に眠っていたどうしようもなく醜く、けれども何よりも人間らしい感情を知ったのは…お前を愛したその瞬間から。――――こんなにちっぽけで、こんなにどうしようもなくて、けれども『生きている』と実感したのはお前がここに在るから。
「…んんっ…ふっ…んっ……」
絡め合う舌の艶めかしさに夢中になってのめり込んだ。何度もきつく吸い上げ、飲みきれなくなった唾液が喉元を伝っても止める事は出来なくて。
「――――キスだけで、欲情したか?」
「…ぁっ……」
互いを結ぶ透明な糸が一筋口許を伝う。それを拭う前にざらついた舌で舐め取られた。その細かい刺激にすら、浅ましい身体は反応する。そこからじわりと淫靡な熱が生まれ、身体の芯へと広がってゆくのを止められない。
「…している…だから……」
「だから?」
口の端だけを少し上げて笑みの形を作るのも、長い指が俺の唇を辿るのも、その全てが身体の芯を痺れさせる。甘い疼きが全身を巡り、逃れられない甘美な毒に侵されてゆく。
「…だから…ココを…触って…あっ!」
「ココだけでいいのか?」
大きな手のひらが衣服の上から形を変化させた俺自身に触れる。形を辿るように撫でられれば、布越しにくっきりと形を浮かび上がらせた。
「…ぁあ…ぁぁっ…ココも…ココも…さわっ…あんっ!……」
耐え切れずに上着のボタンを外せば手がもつれて上手く外せなかった。そんな俺にひとつくすりと微笑うと、お前の手が上着の裾から忍び込んできて尖った胸に触れた。ぷくりと立ち上がったソレを指で摘まむと、そのまま指の腹で転がされる。
「気持ちいいか?サザ」
問いに答える代りにこくこくと頷けば、雄の笑みがひとつ返ってきた。それだけで眩暈がした。眩暈が、する。お前という『雄』に捕えられ、溺れてゆく。
「―――本当にお前は敏感だな…まあ、そうなるように仕込んだのは私のせいか」
その通りだと答える前に唇が塞がれる。もう何も見えなくなるほどに、深い深い口づけに思考が溶かされ奪われた。
堕ちてゆくことが不幸だとは思えない。この腕の中に何処までも堕ちてゆけるのならば。溺れてゆけるのならば。それはきっと。きっと、どんな事よりもしあわせ。
夢中になって、ソレをしゃぶった。お前のそそり立つ肉棒を口に含み、その大きさに噎せ返りそうになりながらも、何度も何度も頬張った。
「上手くなったな、サザ。初めの頃は頬張るだけで精一杯だったのに…今は」
「…んんんっ…んんんんっ……っ……」
「今はお前の舌だけでイケそうだ」
「…いいよ…出して…っ…俺の口の中に…だし…っ…!!!…」
最期まで言い終える前に髪を掴まれ、そのまま引き寄せられる。限界まで口中にソレが広がり、喉の奥までみっしりと埋め込まれる。何度も顔を上下に動かされ、そのたびにソレは俺の中で存在感を増し、圧倒的な大きさで俺の口の中を犯した。そして。
「―――っ!!!!」
弾けるような音ともに口の中に熱い液体が広がる。その白い液体を俺は迷うことなく飲み干した。全て、飲みほした。それすらも、欲しくて。お前の全部が欲しくて。
――――欲しい、全部欲しい。お前の全てが…欲しい………
濡れた瞳で見上げてくるその顔を見下ろせば、その翠色の瞳に私の顔だけを映しだした。その事にちっぽけな満足感を覚え、そのまま。そのまま吐き出した欲望を飲み干すために上下した喉仏に咬みつくように口づける。このまま引き千切ってしまいたいと思う欲望を堪え、剥き出しになった背中を撫でた。綺麗なカーブを描くその背中を。
「獣の本能だな―――このままお前を引き千切ってしまいたい」
「…引き千切れよ…そうしたら…俺は…全部お前の中に…溶けてゆける……」
震える睫毛だが閉じられ告げられる言葉は何処か夢心地で、それはきっと。きっとお前の本音なのだろう。
「…お前の中に溶けたら…俺はもう…もう…淋しくないから……」
「お前はまだ淋しいのか?こんなにも私の全てを手に入れたのに、まだ淋しいと思うのか?」
剥き出しにした心を、咎の外れた欲望の全てを、何もかもが混じり合った感情の全てを、お前の中を抉じ開け突き刺した。何処にも隙間すらないほどに捻じ込んだ。それでもまだ、お前は足りないというのならば。
「…きっと永遠に…俺は淋しい…お前を好きだと気付いたその時から…それはもう…もうどうしようもない事だから…だから……」
「だからこうして貪り合うのか?」
私の問いに頷く変わりに唇を重ねてきた。その様子を薄目を開いて見つめれば、子供のように夢中になって私の舌を、唇を、求めてくる。その様子が愛しくもあり、何処か哀れでもあった。こんな風にしか人を愛せない事を哀しく想い、けれどもそれを向けてくる相手が自分だという事実に、浅ましい程に満たされた。
―――そう、私だけだ…私だけのものだ……
永い、永い、生の中で最期に見つけたものがお前だった。憐れなほどちっぽけで、歪な存在。けれども綺麗だ。何よりも綺麗だ。外側を数え切れないほど傷つけられ壊されたのに、一番奥深い内側はただひたすらに透明だった。それを見つけたのは、気付いたのは、私だけだ。私、だけだ。
「腰を上げろ、サザ。挿れてやるから」
「…ソーンっ……」
お前に手を差し伸べた相手ですら気付けなかったお前の傷を、気付いたのは私だけだ。強がった外側の中に在る綺麗で脆い存在に気付いたのは私だけだ。その事実だけが、私を満たし満足させる。ただその事実だけが。
「そう、いい子だ」
「…ふっ…くふっ…はっ…あっ!…ああああっ!!」
命じられた通りに腰を上げ私自身を飲み込んでゆく。入り口に楔を充て、そのまま腰を降ろして受け入れてゆく。ずぶずぶと濡れた音を立てながら。
「あああっ…あぁぁぁっ…あああんっ!!!」
私の肩に食い込むほどに爪を立て、そそり立つ楔を全て呑み込んだ。そのまま自ら腰を動かし、私の欲望を煽ってゆく。喉をのけ反らせ、胸の果実を尖らせながら。
「…あぁぁっ…ソーンっ…ソーンっ…あんっあんっあんっ!!」
「そうだ、もっと腰を振れ。そしてそのまま私をイカせろ」
髪から零れる汗が、頬を伝う雫が、目尻から零れる生理的な涙が、その全てが綺麗だと思った。儚く綺麗で愛しいと。そうだ、私はお前がどうしようもない程に愛しいんだ。
「…あぁんっ…ああっ…あああっ…もうっ…もぉっ…だめっ…だっ…もぉっ!」
「限界か?ならイケ、ほら」
「――――っ!!!あああああっ!!!!!」
ぐいっと強く下から腰を突き上げてやる。一番深い場所を自らの凶器で抉ってやれば、耐え切れずに白い液体を私の腹の上に撒き散らした。それを見届けその細い腰を掴んで、激しく上下に揺さぶった。限界まで貫いて、そして。そしてお前の中に自らの欲望を吐き出した……
――――ひとつの欲望が叶わないのならば、何一つ叶わなくていい。お前が手に入らないのならば、もう何も叶わなくていい。
お前が見せた子供のような笑顔を、知っているのは私だけで。
「…好きだ…ソーン…好きだ…お前だけが……」
我を忘れるほどに欲情する私を、知っているのはお前だけで。
「…好きだ…好きだ…どうしたら全部……」
その事実だけで、もう。もう戻れない事を知った。何処にも戻れない事を。
「…全部…伝わるのかな?……」
そして、理解する。もう何処にも戻りたくないのだという事を。
「…こんなにも…俺が…お前を…どうしようもないほどに、欲しがっている事に……」
どうしてかなんて、もう考える事は止めた。考えてもどうにもならない事ならば、後はもう。もう欲望のまま、心のまま突き進むだけで。私がお前を欲しがった。お前が私を望んだ。その事実だけが全てだ。それだけが、本当の事だ。
睫毛が触れる。そこから広がる甘くて切ない疼きの名前を、どうしても思い出す事が出来なかった。