re−ACT





傷つく事よりも怖いものがある。それはこの手を離す事。この髪に二度と触れられない事。


もしも、もっと別の出逢い方をしていたら、何かが変わっていただろうか?そんな事を考えてみて、けれどもそれが無駄な事だとすぐに悟った。どんな出逢い方をしてもその碧色の瞳からは、逃れる事が出来ないから。逃げたくないから。
「―――お前の瞳をちゃんと見なければ良かった」
床に無造作に座り込むお前の前に立ち、その顔を見下ろした。ゆっくりと見上げてくるその瞳を逸らす事はもう出来なかったから、呆れるほどに見つめた。見つめて、そして。
「そうすればこんなにも…お前に捕らわれる事はなかった」
そしてそのまま背中に腕を廻し髪に顔を埋めた。そこから薫る微かな雄の匂いにこめかみを痺れさせながら。感覚を麻痺させながら。
「そしてこんなにも自分がちっぽけな人間だと知らずにすんだのに」
廻した手に力を込めれば、そっと背中を撫でられた。その腕がひどく優しくて無性に泣きたくなった。優しすぎて、泣きたくなった。
「ちっぽけで、そして弱くて無力だ。俺はただの平凡な人間だ」
「己を知る事は決して弱さではない。それはお前が一番分かっているだろう?」
零れ落ちる言葉は何処までも穏やかで、ただ静かに心の奥に降り積もってゆく。そうだ、お前は何よりも知っている。俺のどうしようもない弱さと甘えを。だからこうして俺が一番望むものを与えてくれる。一番、欲しい言葉を。
「こんな時呆れて罵ってくれれば、まだ俺は救われたのに。なのにお前はこうして俺を抱きしめて、俺の欲しい言葉をくれる。だからまた俺は…お前から逃れられなくなる」
「逃がさない、そう言っただろう?私はお前を離しはしない」
埋めていた髪から顔を離して、その瞳を見下ろした。普段とは違う角度から見降ろしても、お前の瞳は俺を捉えて離さない。視線に絡め取られ、逃れられなくなって。
「愛していると言っただろう?サザ」
「―――ソーンバルケ……」
「私が決めた―――私の最期の場所はお前だと。だから離さない」
絡め取られ引き寄せられて、そして。そして瞼の裏に決して消えない碧色の残像を焼きつけて、そのまま。そのまま唇を重ねた。どうして、口づけで全てが伝わらないのだろう?どうして全てが、分け合えないのだろう?それがどうしようもなくもどかしかった。



――――全てを拒絶するその瞳の奥から零れてきた淋しさが私を捉えて離さなかった。


呆れるほどの長い生の中で、最期に辿り着いた答えがこの腕の中の命だった。特別な力もなく、ちっぽけなひとつの命。こうして力を込めて抱きしめたら壊れてしまう程の脆さを持つただひとつの命。
「お前は私に言ったな『どうしてお前なんだろう?』と。その言葉を私もそっくりお前に返そう。どうしてお前なのだろう、と」
他人を拒絶しながらも、微かな隙間から零れてくるものが。必死になって閉じ込めていても染み出してきてしまうものが。それに気付いたのは私だけだ。私だけが、気付いた。その意味を理解した瞬間、私はもうお前を手放す事が出来なくなっていた。
「何故お前だったのだろう?私の廻りにはそれこそ沢山の者たちが通り過ぎていった。共に歩める者もいた。それなのに私は立ち止まる事はなかった―――お前を見つけるまでは」
ミカヤにすら見せなかった隙をお前が見せた瞬間。強くあらねばと前に進み続けたお前が、振り返った瞬間。その場所に私は居る事を望んだ。自らその場所に立って、お前を見つめた。そして、捉えた。
「私はお前に出逢うまで知らなかった。こんなにも誰かを愛しいと想う気持ちを」
「…ソーン……」
「お前に出逢ってやっと知る事が出来た。私の淋しさを」
当たり前のように生きてきたから気付かなかった。こんな自分にも脆い部分があるのだという事を。もうそれすらも時の流れの中で越えてきたものだと思った。自分より先に死にゆく人間、ヒトとして扱われない同胞たち。痛みと怒りは心の中に在り続けたけれど、それは生きてゆく糧でもあり、生きる意味でもあった。だから、気付かなかった。自分の中にまだこんな感情が在ったのかと。こんな想いが…存在したのかと。
「私ですら気付かなかった心の空洞を埋めたのはお前だ。お前だけが、埋めた」
強くあらねばと願い他人よりも歩みを速め、必死に大人になろうとして。けれどもそれは何時しか心を歪めて、お前を少しずつ壊れさせていった。それに何処かで気付きながらも『ミカヤ』の為に必死になって傷口から目を逸らして、透明な血を流しながらも歩み続けて、そして。そして、お前は見上げた。いびつに歪んだ瞳で私を見つめた。
「お前が願ったものは、私も欲しかったものだった」
心の奥で叫んでいた声が、私を捉えた。その声はきっと何処かで私も願っていたものだから。そう、私も心の何処かで望んでいた。
「―――俺の願いはお前だけだ。お前だけが欲しい…ソーン」
お前が私を真っ直ぐに見つめてきたから、だから捉えた。その瞳を捉えて、そして。そして絡め取った。きつく絡め取って、離さないようにと。決して、離さないようにと。
「ミカヤに願ったものは『与えたい』それだけだった。俺はどうなってもいいから、ミカヤが幸せになってくれればと、ミカヤを護れたらと、それだけだった。でもお前は違う」
「知っている、だから私はお前を選んだ」
伸ばされる指先が何処までも、愛しい。どうしようもなく愛しくて、そして誰にも渡したくないと願った。お前がミカヤの為に全てを投げ出して空っぽになったというならば、私がその全てを埋めよう。お前が与えてなくなったものを、私が全て注ぎ込もう。
「全部、全部、欲しいよ。俺はお前が欲しいんだ」
抱きつく身体を、きつく抱きしめた。このまま壊れてしまうのではないかと思う程に。壊してしまいたいと願う程に。決して壊しはしないと―――祈るほどに。



「俺はミカヤ以外の相手としあわせになるなんて考えもしなかった。今もそれは変わらない。俺はミカヤ以外とはしあわせになれない。でも俺はミカヤとしあわせになるよりも…お前とともに在る事を選んだんだ。他の誰かとしあわせになるくらいならば…俺はお前とともにいられるならば…どうなってもいいんだ…お前がいれば俺は…俺は……」



傷つこうがぼろぼろになろうが、この手を離す事に比べたら何でもない。お前のいない世界でしあわせに生きるのならば、俺はお前のいるこの場所で滅びてもいい。それでいい。
「…ソーン…俺は…どうしようもないほどちっぽけで…そして無力だ……」
平凡で何の特別な力もなくて、ただの人間で。それでもお前が好きで。どうしようもない程好きで。俺が持っているものはこの想いだけだけど。
「ちっぽけでも無力でも…それでも私にとってはお前以上の存在はいない」
けれどもこの想い以上に強いものはないと胸を張って言えるから。この想いだけは誰にも負けないのだとそう言えるから。だから。
「私にとってお前以上のものは何もない」
「――――愛している、ソーンバルケ」
だから、告げさせて。剥き出しになったこの想いを。俺が持っている唯一の武器を。ただひとつのものを。ただひとつの俺の生身に想いに、その手で触れて。
「ああ、私もだ。私もだ、サザ」
どうなってもいい、だから。だからこの手を離さないで。俺を離さないで。壊れてもぼろぼろになっても、誰に何を言われても、世界の全てからはじき出されても。―――俺を、俺をはなさないで。
「お前だけを…愛している……」
重なり合う言葉はどちらから告げたものだろうか?もうそんな事はどうでもいいけれど。それでも言葉でしか想いを伝える手段がないから、こうして告げる。何度でも、何度でも。


「―――愛している……」


重なる唇が溶けあってこのまま。このまま混じり合って消えてしまえたらと、願った。叶わない夢想に溺れて、そして。そしてそれ以上の欲望に溺れる。どんなになっても触れていたいと、どんなになってお前に触れていたいと、剥き出しの欲望に溺れた。