指を絡めて眠る事のしあわせを。繋がった指先を離さない事の喜びを。ただそれだけでいい。それだけで、いいんだ。
――――笑顔の行方が今。今この場所に在る限り、私はもう何も願う事はない。
睫毛が触れあってそっと吐息が重なった。その瞬間がどうしようもない程にしあわせだと感じた。ただしあわせだとそれだけを思った。
「…ソーン……」
「何だ?」
名前を呼べば口の中に広がる甘くて何処か切ないその響きが何よりも大切だと気付いた瞬間、俺は生まれて初めて恋をした。
「お前の今の顔―――俺…好きだ……」
見つめて、見つめあった先にある穏やかな瞳が。全てを見透かしそして全てを受け止めてくれるその碧色の瞳が、そっと和らぐこの瞬間が。
「お前がそう言うのならば、きっと…私は幸福な顔をしているのだろう」
他にはもう何もいらないけれど、俺はお前だけが欲しい。我が儘でも身勝手でも、それでもお前だけが欲しい。本当にそれだけだ。それだけだから。
「うん、でもお前の瞳に映っている俺の顔の方が…馬鹿みたいに幸せそうな顔をしているから」
額を重ね合ってひとつ微笑った。俺はお前に出逢って初めて知った、こんな風に微笑える事を。何もないこんな瞬間でも自然と口許から笑みが零れてくる事を。そしてお前が教えてくれた―――声を上げて微笑う事は決しておかしなことではないのだと。
心が追い付かなくても大人にならなければならなかったから。護るべき者がある俺は無邪気な子供でいる事は許されなかったから。それがどんなに歪なものでも、どんなに不自然なものでも、俺は前に進む事しか出来なかった。
『サザはサザのままでいいのよ。無理なんてしないで』
俺にとってただ一人の『肉親』と呼べる相手は変わらない笑顔を浮かべながらそう言ってくれた。けれども俺は前に進む事を止められなかった。止める事が出来なかった。大人になる事だけが彼女を護る方法だと信じていたから。それしか分からなかったから。
――――けれどもそんな俺に差し出された手のひらがあった。包み込む腕があった。
身体を丸めて眠る俺を抱きしめる腕がある。包み込む腕がある。夢を見ないで眠れたのはその腕の中だけだった。きつく握り締めた指先をひとつひとつ解いてくれたのはその指先だけだった。ここだけが俺が安心して眠れる場所だった。
「かたくなに言ってはくれなったのに―――今は呆れるほどに告げてくれるのだな…好きだと」
どうしても言えない言葉だった。言いたくて言えなくて。言ってしまったら今まで築き上げてきて自分自身を壊してしまうような気がして。それを告げてしまったら全てを失ってしまうような気がして、どうしても言えない言葉だった。
「お前がどんな俺でもいいと言ってくれたから、どんな俺でも受け止めると言ってくれたから…だから言えた。お前が好きだ」
「ああ、私もだ。私もお前を愛している、サザ」
ああ、俺は。俺は本当に馬鹿みたいにお前に恋をしている。本当どうしようもない程に俺はお前が好きだ。お前だけが好きなんだ。愛は知っていた。無償の愛は知っていたのに、俺はこんな簡単で単純で、一番身近にある恋だけはお前に出逢うまで知らなかった。一番簡単で、そして一番大切なこの気持ちを。お前に出逢うまで俺は与える事しか知らなかった。望む事を欲しがる事を求める事を、知らなかった。自分から手を伸ばす事を、掴み取る事を、知らなかった。
―――――子供のように微笑むうお前を、ただずっと。ずっと見ていたいと願った。
それは偶然だったのか、もしくは必然だったのか。お前の瞳が私を見上げてきたのは。真っ直ぐに見上げて、そして。そして必死になって隠そうとした感情を私が見つけてしまったのは。
『―――お前の瞳は私が遠い昔に失くしてきたものを思い起こさせる』
見つけた先にあるものが、私の感情呼び起こした。その感情に導かれるまま手を差し出せば、お前は必死になって私を拒む。けれども、零れてきたから。そっと零れてきたから。隠したくても隠しきれない、消したくても消せないその想いが。
『私の手を取れ、サザ。お前は…本当はずっと淋しかったのだろう?』
護るべきものがあって、その為にお前は子供である事を捨てた。甘える事を、頼る事を、求める事を、その全てを捨てた。
『この手を取れ。私は、お前が欲しい』
戸惑う手を掴み引き寄せれば、その身体は拒むことなく腕の中に閉じ込められる。きつく抱きしめれば、もう二度と離せないと思った。もう二度と、離せないと。
『私のものになれ。そして私を望め』
瞳を重ねれば互いに戻れないと悟った。溢れてきた想いを止める術など何処にもなく、後はただ。ただ呑み込まれてゆくだけで。
『―――お前が…悪い…お前が俺を放っておかなかったから…お前が俺を見つけ出したから…お前が俺を……っ』
腕の中で壊れてゆく瞳をずっと見つめていた。剥がれてゆく心を全て受け止めるために。全ての殻をはぎ取って剥き出しになったお前を抱きしめるために。
『…俺は気付きたくなかった…自分がこんなにも弱くて…こんなにもこんなにも、ガキだった事に…俺は知りたくなかった…こんなにも誰かを欲しいと思う事を…知りたくなんてなかったんだ…』
『それでもお前は私を見上げた。私の手を取った―――それが答えだ』
見つめて、見つめあって、そして重ねる唇は何処か血の味がした。痛みを伴う口づけは、心の傷を広げ混じり合った。欲望と願いと、そして愛を。
何ももう願うものはなかった。望むものもなかった。ただお前がいればいい。私の腕の中で微笑ってくれればいい。それだけでいい。お前という命がこの場所から旅立つまで、私はずっと。ずっとお前を見てゆければそれだけでいい。それだけで、いいから。
「私はずっとお前を見てゆく。お前をこうして抱きしめる。だから、ずっと」
呆れるほどの長い『生』の中で何時しか私は諦める事憶えた。どうやっても共に生きてゆく事が出来ない相手がいる事を。どんなに望もうとも共に生きてゆく事が出来ない相手がいる事を。それでも、私は。
「…ソーン……」
諦める事を知っても、その先にある未来がどんなものだと分かっていても、それでも惹かれた。それでも焦がれた。それでも望んだ。それでも願った。それはずっと。ずっと遠い昔に置いてきた筈のものだった、遠い昔に捨てた筈のものだった。それなのにお前の瞳がその感情の全てを私に呼び戻したから。だからもう。もう二度と。
「ずっと微笑っていてくれ。私の瞳の中で」
お前を離さない。お前を離しはしない。お前のこれからの生を全て私は見てゆく。その全てを私の中に刻んでゆく。お前の全てを。
「――-ああ、ソーン。ずっと…ずっと俺はお前だけを見てゆくから。ずっと…」
お前という存在全てを私だけのものにする。この先の生をそして死にゆく最期の瞬間まで、お前の全てを私だけのものにする。それ以上の幸福を私は知らない。それ以上のしあわせを私は知らない。それ以上の贅沢を私は…知らない。
溢れるほどのしあわせを。零れるほどの愛を。その全てをお前だけに捧げよう。だからずっと。ずっと微笑っていてくれ。それだけがただひとつの私の願い。だからずっと。ずっとそばにいてくれ…ずっと……。