たった一言、告げればいいだけなのに。ただ一言を伝えればいいだけなのに。どうしても。どうしても、告げる前にその言葉を飲み込んでしまう。声にしようとして、言葉にしようとして、音にしようとしても。―――どうしても、喉の奥に飲み込んでしまう。
繋がった指先を離したくなんてなかった。この手を離したくなんて…なかった。
始まりがあれば、終わりがある。それは当り前のことだった。だからこんな日が来ることはずっと分かっていた筈なのに。ずっと、分かっていたことなのに。
「―――お前には帰る『場所』が、ある」
こんな時まで、穏やかな瞳は変わらなかった。何処までも見透かす、けれども底を見せる事のない碧色の瞳。それはきっと。きっと、ずっと変わらない。
「その場所を私はお前から奪うことは、出来ないよ」
優しい声は何時もと変わらない。名前を耳元で囁いてくれる時と、何一つ変わらない。この目の前の男はこうして、ずっと変わらないでいるのだろう。どんなに時が流れようとも、どんなに廻りの景色が変化しようとも。
「だから、ここでさよならだ。サザ」
柔らかい声。穏やかな瞳。優しい口調。それは何一つ変わらない。何時もと変わらない。変わらないから、苦しかった。
こんな日が来ることは、ずっと分かっていた。自分には帰る場所があり、ただ一人の相手がいる。護るべきただ一人の女が。だからこの関係は、今だけ。戦いが続く、この日々だけ。それは嫌というほどに分かっていたはずなのに。なのに、どうして。どうして、こんなにも苦しいの?
「…ソーンバルケ……」
好きだという言葉だけは告げなかった。どんなに胸の中に溢れても。その言葉を告げた瞬間に、全てが壊れてしまうような気がしたから。今まで形成していた『自分』という存在を、足許から崩してゆくような気がしたから。だから好きとは、言わなかった。
「俺が、好き?」
けれども自分は相手に、求めた。呆れるほどに求めた。自分は決して告げないのに、相手には何度も何度も求めた。好きだという言葉を、愛しているという想いを。
「好きだよ、サザ」
その答えが返ってくるのは分かっていた。何度尋ねても、その言葉を自分にくれるのだろう。幾らでも、望む限り。けれども。
「愛してる?」
「愛しているよ」
けれども、最期まで。最期まで、一番欲しいものは…くれなかった。本当に一番欲しいものは、くれない。
子供だからと、身体は繋がなかった。だからその分、心を結んだ。
「…でもお前は『帰れ』と言うんだな……」
精一杯手を伸ばし、その身体にしがみ付いた。必死になって掴んでいた。
「デインとの戦争は終わった。皆元いる場所に帰ってゆく。それだけのことだ」
こんなちっぽけで惨めな子供を、抱きとめてくれた腕。けれども、それは。
「アシュナードは…倒れた…戦争は、終わったんだ」
それは、俺が惨めな子供だったから。ちっぽけなガキだったから。
――――どう足掻こうとも、どうもがこうとも…同じ位置には、決して立てない。
延ばされる腕が、暖かいのを知っている。その腕の中がどんなに安全な場所かを、知っている。けれどもそれ以上に、どんなに苦しい場所かも…知っている。それでも。それでも、拒むことは出来ないから。
「…俺を奪い去ったりはしないの?……」
抱きしめる腕の力強さに、泣きたくなった。このまま声を上げて泣いてしまいたいと思った。そうたら。そうしたら、好きだと告げられるような気がした。壊れても、崩れてもいいから、伝えられるような気がした。
「このまま、俺を……」
その先の言葉は、唇に奪われた。優しく柔らかな口づけに。それがただ。ただ、悔しかった。何時もと変わらない甘いキスが、哀しかった。
戦争は、終わったから。戦いは、終わったから。だから帰らなければいけない。ミカヤのもとへと。ミカヤを捜さなければいけない、彼女は自分にとって、ただ一人の女だから。それは心からの望みだった。最初から迷うことのない願いだった。けれども。
「奪えるものなら奪いたいよ。でもお前はまだ……」
けれども、それなのにどうしても。どうしても、心の奥から湧き上がってくる想いを止められない。止める事が、出来ない。
「…まだ?……」
このまま、連れ去っていってほしいと。強引に、奪っていってほしいと。そんな卑怯な欲望が、歯止めなく湧き上がってくる。自分からは飛び込めない癖に。自分からは言えない癖に。身勝手なガキの我が儘だと分かっていても。それでも、と。
「まだ、駄目だ。お前にとっての唯一の肉親が彼女ならば…子供であるお前は『親』の元へ帰さなければならない。子供にとっての一番の幸せは親とともにあることだ」
そんな理想的な言葉を聴きたい訳じゃなかった。けれどもそれはとても『正しい』ことだ。そうだ、正しいことなんだ。だって、歪んでいる。この二人の関係は、不器用なほど歪んでいる。
「いずれ俺にとってミカヤが『親』じゃなくなるかもしれないのに。それでも、いいのか?」
歪んで、崩れて、そして壊れていく。それでも、手離したくはなかった。手離したくない。この男が、欲しい。
「お前が彼女に恋をするなら、それでいい。それがお前にとっての幸せなら…それでいい」
欲しくて、欲しくて、気が狂いそうだ。正しくなくていい、間違っていてもいい。もうどうでもいい。どうなってもいい―――お前が、欲しい……
「そんな言葉は、俺は欲しくない。俺が欲しいのは―――」
その言葉を寸でのところで飲み込んだ。飲み込んで…そして。そして、言葉に告げる代わりに口づけた。がむしゃらにその唇を、奪った。
――――どんなに願っても、お前は俺の一番欲しいものだけはくれない。それだけは、くれない。
愛しさだけならば、よかった。優しさだけならば、よかった。
「…サザ……」
与えてやれるものが、それだけだったならば私はお前を。
「…ソーン…んっ…ふっ……」
お前をこんなに苦しめはしなかったのに。こんなにも、お前を。
「…愛しているよ…サザ……」
でもそれ以上に、私は。私はお前を、欲しいと願ってしまった。
――――奪えるものならば、このまま奪い去ってしまいたい。それが叶うのならば。
気付いていないだろう、お前が。お前が目覚めた瞬間に見せるあどけない表情が。無意識に見せるただひたすらに無邪気な笑顔が。挑むように見上げてくる瞬間の、ひどく大人びた表情が。その全てが私を捕えて離さないのだということを。
お前の全てが、もう。もう私の一部になっている事に。当たり前のように、お前が私の中に在ることに。
きつく、抱きついた。これが最期なのかもしれないと思いながら。最期だったなら、楽になれるのかもしれないと思いながら。
「…やっぱり『さよなら』…なんだな……」
優しい口づけ。優しすぎる腕。与えてくれるものは、それだけだった。それが全ての答えだった。
「私が願うのはただひとつ。お前の『しあわせ』だ」
しあわせ?そんなもの、お前に比べたら大したことないよ。お前と引き換えならば、俺いらないよ。でも。でも、お前は俺にそれを願うんだな。それを与えようとするんだな。
「何処にいても、どんな場所にいても…願いはただ一つ。それだけだ」
誰かとしあわせになる未来より、ともに不幸になる今を願う俺は、やっぱり何処かいびつなのか?
「―――ソーンバルケ」
最期なら、楽になれた。さよならと告げて、それで終わりならば。後は想い出として、浄化してゆけばいいのだから。けれども。
「さよならは言わない。それは無理だ」
けれども、こんなにも。こんなにも心の奥底まで、喰い込んでいる想いを。深い場所まで、根付いてしまった欲望を。それはどうやっても、消えないものだから。
「けれども、今俺はお前から離れる。二度と会えないかもしれない。でも」
「――――でも、さよならだけは…言わない。俺にとってお前はどうやっても消えない存在だから。どうしたって消せない存在だから。それならば、ずっと俺の中に『お前』を置いておく」
もしこの先に綺麗な未来が待っているとしても、俺は。俺は穢たなくてもいいから、今が欲しかった。お前が、欲しかった。
「…サザ……」
あ、今。今お前は俺の一番欲しいものをくれた。こんな時になって、こんな瞬間になって、お前は。お前は俺の一番欲しいものをくれるんだな。こんな瞬間に、なって。
「…じゃあな、ソーンバルケ……」
だから、いいよ。いいよ、許してやる。今この瞬間、離れることを許してやる。二度と出逢えなくても、許してやる。
お前が見せてくれたから。穏やかな何時もの表情じゃない…俺という存在に『揺れて』くれたから。
ずっと、見たかったんだ。それだけが、見たかった。
何時も大人で、何時も穏やかで。欲しい言葉も、優しいキスも。
お前は俺が欲しいと願うものは何でも与えてくれたけど。
けれども、それだけだった。それだけ、だった。
――――俺という存在に、どんな瞬間でもいい…本当の顔を見せてほしかった。
少しでいいから、動揺してほしかった。一度でいいから、激しく口づけて欲しかった。一瞬でいいから、息を奪われるほど抱きしめて欲しかった。剥き出しのお前の感情が…欲しかった。だから俺、もう。もうそれだけで、いいよ。
「…好きだよ、ソーンバルケ……」
後ろ姿が何処にも見えなくなって、ぬくもりが身体から消えて初めて。初めて、サザはその言葉を告げた。ずっと言えなくて、ずっと閉じ込めていた言葉を。
「お前だけが、好きだ。ずっと、好きだ。好きだ、好きだ、好きだ……」
溢れだした言葉は、止まることなく流れてゆく。声として零れてゆく。それは何時しか語尾が滲み、嗚咽へと変化した。それでも、告げる。言えなかった、言葉を。
自分は自分勝手なガキだった。どうしようもなく、我が儘な子供だった。欲しいものは自分から手に入れなければいけないのに。本当に欲しかったら、自分が奪わなければならないのに。そんなことすら気づけない、ただのガキだった。
奪われる事だけを願う、自分の心を必死に護るしか出来ない…ちっぽけな、子供だった。