――――俺がお前に出来る事…俺がお前にしてやれる事は、一体何だろう?
思い出だけで生きてゆけたら、こんなにも苦しくはなかった。胸の中の存在だけで生きてゆけたら、その先はないんだとけじめをつける事が出来た。けれども、また。また、こうして、出逢ってしまったから。―――こうしてまた、再び巡り合ってしまったから。
ここにあるのは、ただ互いの存在が在るという現実だけ。もう過去も、未来も、何もない。なにひとつ、ない。このぬくもり以外には。
俺がお前に出来る事は、一体何だろう?お前に与えられるだけで、一方的に与えられるだけで、何も出来なかった自分が…お前にしてやれることは一体何?
「………ふ…はははははははは」
そんなお前を俺は見た事がなかった。どんな時でも穏やかな笑みを浮かべて、そして全てを見通すような瞳を湛えていたお前のそんな顔を。
「何もかも、でたらめだったのだ!何百年もの間…そのでたらめによって私たちは迫害され続けたのだ。これが笑わずにいられるものか。くっくくくく」
直接聴いた事はなかった。でも薄々とそうではないかと感じていた。似ていた、から。ミカヤと纏う空気が似ていたから。だからもしかしたら。もしかしたら、お前も『印つき』なのではないのだろうかと。
「くくく―――」
聴こえてくる自嘲気味な笑い。乾いた、笑い。それが、痛い。それが、苦しい。剥き出しになったお前の想いが。俺が知らなかったお前の心の奥底が暴かれた瞬間が。そしてそれ以上に。それ以上に、何も出来ない自分が。
何も、出来ない。何一つ、してやれない。あれだけ自分は彼から与えられているのに。呆れるほど望み、その全てを与えられているのに。それなのに現に今も何も出来ずに、ただ。ただこうやって、突っ立っているだけで。
立ち聞きするつもりなど微塵もなかった。ミカヤの姿を捜したら、二人が…と言っても中身はユンヌだったが、話していたから。だから話が終わるのを待ってから、声をかけようと思った途端、お前が突然自虐的に笑いだしたから。その瞬間、全てが分からなくなって。どうしていいのか分からなくなって、ただ。ただお前の言葉を、聴いていた。お前の言葉、だけを、ずっと。
「――――あ……っ」
目が、あった。その瞬間、こわばったような表情が一瞬だけ。ほんの一瞬だけ変化する。俺はきっと。きっと、その顔を一生忘れない。お前が俺に見せてくれた、その顔を。
「…ソーン…バルケ……」
見せた表情は一瞬だけ。それはすぐに何時もの顔に戻り、そのまま。そのまま踵を返して少しでもこの場所から離れるように歩き始める。俺はただ。ただ無言でその後を着いてゆく事しか出来なかった。その広い背中を追う事しか。
―――もう一度出逢ってしまったら…もう二度と、離すことは出来ない……
音のない世界。静寂だけが埋める世界。ここにあるのは嫌になるくらいに綺麗な正の気。その『正しさ』が心をざらつかせる。何も混じらない美しさが、全てを穢したい衝動を呼び起こす。何もかもを穢して、壊してしまいたいと。
「例え中身が『ユンヌ』であろうとも」
進めていた脚が止まり、やっと。やっと振り返ってくれた。ちっぽけな自分を、見つめ返してくれた。
「ミカヤがそばにいる場所で、こんなことは…したくないからな」
「…あ……」
その腕が伸ばされきつく、抱きしめられる。その腕の強さは吐息すら奪ってしまうほどで。奪ってほしいと願うほどで。
「…ソーン…俺……」
「余計なことは、言うな。言わないでくれ。ただ今はこうしていてくれればいい」
言われた言葉を返す代わりにそっと。そっと背中に腕を廻した。広い背中。でも変わっていない背中。二年前と何一つ変わっていない背中。こうしてまた触れてしまえば、もう二度と。もう二度と離したくない。この腕をこの場所を…彼の全てを……。
「…ソーンバルケ……」
背中に廻していた手を解いて、その頬に触れた。暖かい頬に。そしてそのまま。そのまま綺麗な碧色の瞳を瞼の裏に焼き付けて、唇を重ねた。これしか思いつかなかった。今の俺が、お前に出来る事が。
触れてくる唇の暖かさが、そっと染み込んでくる。
「…サザ……」
そっと心の中に染み込んでくる。そんなキスを。
「…ん…ふぅ…ソーン……」
そんなキスを、お前はいつ覚えた?何時から、こんなキスが出来るようになった?
「…ソー…ンっ……」
こんなに暖かいのに、どうしようもなく苦しいキスが。
唇が離れて、見上げてくる瞳が微かに濡れて綺麗だった。哀しいくらいに、綺麗だった。それは以前には見せた事のない瞳だった。
「…同じ印つきだからじゃない……」
指先が無造作に伸ばされた前髪に触れる。そのまま前髪を上げさせて、隠してきた印を眼下に暴く。
「…お前だから、俺は……」
そしてその印にそっと。そっと唇で触れる。そこから広がる熱が、ひどく。ひどく、私を狂わせる。狂わせて、ゆく。
「…駄目だ…やっぱり…俺はお前に逢うべきじゃなかった……」
「―――サザ……」
「…お前に逢ったら…こうなることは分かっていたのに…分かっていたのに…逢いたかった……」
唇が、重なる。濡れた唇が、重なる。濡れた想いが、重なってゆく。重なって、そして。
「…他に思いつかない…俺がお前に出来る事が…だから……」
そして見つめる。濡れた瞳で、見つめる。それは以前の彼の瞳ではなかった。不安定な子供の瞳じゃなかった。今ここに在る瞳は。
「―――さっきの私を憐れんでいるのか?それならば無用だ。憐れみなど最も我々が忌み嫌うものだ。印つきは憐れみなど受ける存在ではない。そんなものでは決してない」
「…違う…そんな事…お前が一番分かっているだろう?…」
分かっている。そうだ、そんなこと自分が一番分かっている。それでもこうして確かめてしまうのは…さっきの女神の言葉に揺らいでしまった自分の心のせいだ。こんな今になってどうしようもない理由で、自分たちが何百年もの間苦しめられていた。こんなでたらめな話で。
「…そうだなお前はずっと『ミカヤ』と一緒だった…ずっと一緒だ、これからも…それが何よりもお前を苦しめる――そんな事、ずっと分かっていたのにな」
傷ついているのはお前なのか、それとも私なのか?今告げている言葉の残酷さを知りながら止められないのは。
「…分かっているのに…お前はこうして私のそばにいる…私の場所にいる……」
こうして手を伸ばせば抱きしめられる。唇を重ねれば、子供じゃない口づけが返ってくる。そうだ、もうあの頃のような子供じゃない。最後のいいわけは、もう何処にもない。
「―――ソーンバルケ…俺はまだ子供なのか?お前にとって膝を抱えてうずくまっている、小汚い子供なのか?」
何処にも、ない。もう引き返せない。引き返す事が出来ない。それは最も護りたいと願った相手を、自分が壊すこと。内側から、壊してゆく事。それでも。それ、でも。
「もう戻れないぞ。それでもいいのか?」
「…他に思いつかない…俺がお前にしてやれることが…お前に出来る事が……」
以前の彼からは決して出ない言葉だった。出させてはいけない言葉だった。無条件で護られる事を知らなかったから、与えたぬくもりだった。与えた愛だった。でも今は。今はこうして、自分と同じ場所に立とうとしている。同じ、場所に。崩れるしかない、堕ちるしかない、この場所に。それでも。
「心が彼女のものだから身体を私にくれるのか…ならば望み通り…抱いてやろう」
無駄でしかないと分かっていても、最後の逃げ場所をこうして与える私は…愚かなのだろうか?そんなものはただの、気休めでしかないと分かっていても。
最初に結んだのが、身体だったなら。きっと。きっと、こんなに苦しくはなかった。最初から身体だけを重ねていれば。子供だからとか、哀れだとか、そんな感情より先に肉欲に溺れていたら。
でも最初に結んだのが心だったから。きつく結んでしまったから。自分では解く事が出来ないほどに、きつく。だからこんなにも、苦しい。こんなにも…くるしい。与えられた無償の感情が、あまりにも幸せでどうしようもなかったから。どうにも、出来なかったから。
唇を重ねる。何度も何度も、重ねる。薄く唇を開いて、舌を絡める。互いの舌を、吐息の全てを奪うとでも言うように。
「…んんっ…ふぅ…ん…っ……」
何時もなら口許に零れる唾液を拭ってくれる舌は、ひたすらに口中を征服してゆく。吐息すら零す暇もない程に。
「…んっ!……」
唇は解放されないままで、その指が胸の突起に触れる。軽く指先で触れただけなのに、組み敷いたサザの身体はぴくんっと跳ねた。
「…んんっ…んんっ…はぁっ…ぁぁっ!……」
「感じやすいんだな」
「…そんな事…言うなっ……あっ……」
指の腹で突起を擦り柔らかい刺激を与える。それだけで張りつめる胸の果実の様子に薄く微笑うと、そのまま親指と人差し指できつく摘まんだ。
「…ああっ…あ……」
解放された口から零れるのは驚くほどの甘い声。そんな声を自分がするなんて、サザは夢にも思わなかった。こんな声が、自分の口から零れてくる瞬間なんて。
「…ふっ…はぁ…ぁぁっ……」
声を抑えようとして無意識に指先が口許へと運ばれる。そのまま自らの手で口を塞いだ。けれども、そんなささやかな抵抗も次の瞬間…無意味なものになってしまう。
「…あぁっ!……」
空いていた方の胸の突起が濡れた舌で転がされたからだ。そのまま甘噛みされると、もう。もう、耐えられなかった。
「…やぁ…駄目っ…やめっ……」
抵抗と呼ぶにはあまりにも弱弱しい声だった。現に首はイヤイヤと横に振っていても、身体の方は正直で。
「―――嫌なのか?もうこんなになっているのに」
「―――っ!!」
突然指が、下半身に触れた。それはすでに胸への愛撫のせいで微妙に形を変化させている。ソレを確認するように布越しから、カタチを指で辿ってゆく。
「…駄目だ…そんなこと…したら…俺……」
「そんな事をするために―――私に組み敷かれているのだろう?」
耳元で囁かれる言葉が、その囁きがサザの睫毛を震わせる。触れられている指先よりも、ずっと。ずっと、声の方が濡れる。心が、濡れる。
「―――あっ!……」
覆っていた布を、剥がされる。限界まで立ち上がったソレを眼下に晒される。ひくひくと、勃ちあがって震えるソレを。
「…やぁ…っ…見ない…っ……」
自分の醜態に耐えきれずに腕で顔を覆って、見下ろす視線から逃れた。けれども。けれども、そうしていても、感じてしまう。自分を見下ろす、その視線を。
「隠すな、サザ。私はお前の全てが見たいんだ」
「…ソーン……」
「子供じゃない、今のお前を…今私の腕の中にいるお前を…見たいんだ……」
痛い程に貫かれる視線と、穏やかな囁きの合間に零れる熱さ。それが全てを忘れさせた。全ての感情を忘れさせて、ただ。ただ、見たいと。その顔が見たいと、それだけを思ったから。
「―――私の、ものだ」
穏やかな笑みじゃない。優しい顔でもない。けれども痛い程に真剣に自分を見つめる双眸が、何よりも。何よりも、サザの心を締め付ける。締め付けて、そして。そして少しずつ、剥がしてゆく。―――理性という言葉を、罪悪感という心を。
「…ソーン…バルケ……」
もう何も。何も、考えられなかった。ただ欲しいと。この人が、欲しいと。それだけを思った。それだけを、願った。
どうして、お前なの?お前じゃなければいけないの?
「…私だけの…ものだ……」
ミカヤではなくて、お前なの?どうして、俺は。
「…うん…俺は……」
どうして俺は、こんなにも。こんなにもお前が、好きなの?
「…俺は…お前だけの…ものだ……」
好きな気持ちだけで、生きられたらよかった。それだけで、生きてゆければよかった。何もなくて、ただ。ただそれだけで。その想いだけで、生きてゆけたならば。
ただ人を好きになるだけなのに、どうして。どうして、誰かを傷つけてしまうの?
真っ二つに引き裂かれる痛みに、悲鳴を上げた。身体を二つに引き裂かれる痛み。けれども、もしも。もしも本当に真っ二つになれたならば。そうしたらきっと、楽になれる。迷うことも選ぶことも全てなくなって、楽になれる。
「くっ―――あああっ!!!」
けれども、こんな苦しみも、こんな痛みも、全部。全部選んだのは自分だ。選び取ったのは、自分自身だ。
「力を抜け、でないともっと辛いぞ」
選んだのは自分自身。心が悲鳴を上げて壊れる事が分かっていても、それでも欲しかった。お前が、欲しい。
「…あああっ…ああああ……」
繋がっている個所が焼けるほどに熱い。それと同時に襲ってくる激しい痛み。けれどもそれは。それは全部、お前が与えてくれたものだから。お前が俺に、打ちつけたものだから。
―――もっと抉って欲しい。俺の一番深い場所まで、お前が挿いってきてほしい……
お前という存在で、俺の全てを埋めて。俺という入れ物に、お前の全てを注いで。そうしたら。そうしたら、きっと。きっともう淋しくないから。
「…サザ…出すぞ?いいか?」
囁かれた言葉の意味を確認する前に頷いていた。思考はもう痛みと快楽で奪われて、何もかもが分からなくなっていた。もう何も、分からない。この繋がった熱さ以外には。接合部分の焼けるような熱さ以外には。
「―――ああああっ!!!」
注がれる。熱いものが、注がれる。お前が俺の中に、注がれる。俺の中にお前が…お前という存在だけで、俺が埋められてゆく……。
過去も、未来も、いらない。現在がほしい。今だけが、欲しい。この瞬間だけがあれば、それでいい。それだけで、いい。
お前が、好き。お前だけを、愛している。
「―――サザ…これでもう……」
どうしようもない程にお前に恋焦がれている。
「…私たちは本当に…何処にも……」
お前が好きて好きでどうしようもなくて。
「…何処にも…ゆけなくなったな……」
どうにも出来ないから、こうして。こうして肌を重ねた。
お前のために何が出来るかなんて…そんなの口実でしかない…本当はお前に抱かれる事を願った浅ましい想いがあるだけだ。それだけがここに、在るだけだ。
「…もう…どこにも……」