何もかもが赦されなくて、何もかもが間違っていたとしても。
闇に覆われた世界に、月だけがぼんやりと頭上に浮かんでいた。淡く儚い月だけが空に浮かんでいた。
「―――スルーフ、ここにいたのか?」
月に照らされた白い横顔を一瞥してからサイアスは彼の隣に立った。金色の彼の髪が、ふわりと風にひとつ揺れる。
「サイアス様、起きておられたのですか?」
少しだけ驚いたように瞳が見開かれ、次の瞬間には穏やかな笑みへと変化した。
その笑みは誰にでも向けられる笑み。神父である彼は誰にでも平等に愛情を注いでゆく。否、そうでなければならない。けれども。
「…嫌な夢を、見た……」
けれどもそうは理解していても何処かで。何処かでその笑みを自分だけに向けて欲しいと願うのを止められない。自分だけに、微笑っていて欲しいと。
「…そうですか……」
それ以上スルーフは何も言わない。ただサイアスをその曇りない瞳で見つめ、そしてそっと。そっとその手を彼の頬に触れるのだ。
それだけで癒される自分がいた。それだけでは満たされない自分がいる。
望んだものは永遠に得られる事はなかった。その代わり望んでもいないものは容易く手に入った。一番願ったものだけが叶わずに、それ以外の不必要なものだけが自分に与えられた。
「私は時々、自分が怖くなる」
「サイアス様」
特別なものを望んだわけじゃない。ただ平凡なしあわせを願っただけだ。けれどもそれだけが、どうしても叶えられない。自分の内側に流れる血が、それを決して赦してはくれなかった。
「自分が空っぽではないかと…そう思える」
「空っぽ?どうして?」
スルーフの手がサイアスの頬からそっと離れ、そしてそのまま指先に絡まる。細くしなやかな指先が、そっと。
「貴方はこんなにも暖かいのに。こうやって私と触れているのに」
柔らかい笑顔が淡い月の光に照らされる。それをサイアスは純粋に綺麗だと思った。ただそれだけを、思った。
「それでも私は空っぽだ…ただの器だ」
「…サイアス様……」
「…すまん…お前には関係のない事だな……」
自分に流れる血の話をしても無意味な事は分かっている。それをばらしたとしてもどうにもならない事も。流れゆく歴史の表舞台からはみ出した自分には。
「それでも貴方は今、ここにいます。私の前にいます」
繋がっている指先のぬくもりが全てだったならと、サイアスは思った。もしも本当にそれだけが全てならば、苦しみなど何処にもなくような気がした。
誰を恨んでいる訳でもない。誰かを憎んでいる訳でもない。選ばれたかった訳でもない。表舞台に立ちたかった訳でもない。ただ。ただひとつだけ。
自分の存在を、認められたかっただけだ―――子供として。
片方の指を絡めたまま、スルーフはサイアスの髪に触れた。紅い髪。それは燃えるような炎の色。それは彼の内側に眠る血と同じ色。
「―――サイアス様……」
薄々と自分は感じていた。彼の中に眠る炎の――いや、ファラの血を。けれどもそれを認める事は彼には赦されない。自分の存在を知らしめる事は、赦されはしないのだ。
「私にとって貴方は貴方です。今ここにいる『貴方』だけが私の真実です」
だからといって今ここにいる目の前の存在は否定されはしない。例え歴史の流れが存在を赦さなくても、真実が闇に隠されたとしても。それでも。
「それでは…駄目ですか?……」
スルーフの笑みは誰にでも向けられる。誰にでも優しく微笑う。けれども。けれども今自分に見せた哀しみの表情は…この瞳は…。
「…お前が言うのならば…それでいい……」
自分だけが知っているのだと。自分だけに与えられたものだと、今サイアスは気が付いた。
貴方の中に眠る血が赦されないものだとしても。
「…サイアス様…私は……」
今こうして私が貴方に願う想いが赦されないとしても。
「…私は…神父としてでなく私自身として…」
何もかもが赦されなくても。何もかもが間違っていても。
「…少しでも…貴方を救う事は出来るでしょうか?……」
頭上に浮かぶ月が、ふっと。ふっと雲に隠される。そしてただ静かな闇だけがふたりを包み込んで。包み込んだ瞬間、そっと。そっと唇が、触れる。
何もかもが赦されなくて。何もかもが間違っていても。
一瞬だけ重なって、そして離れた唇。
「お前がいればいい。お前だけが分かってくれればいい」
ただ一瞬のぬくもり。けれども知ってしまった。
「―――お前だけが……」
その柔らかさと、甘さと、切なさを、知ってしまったから。
月は螺旋を描き、ふたりを見下ろしていた。ただ静かに、見下ろすだけだった。