窓から零れる三日月の光だけが、全てを知っている。
私の罪を。そして、あなたの血の匂いを。
この零れ落ちるひとつの光だけが。
―――あの瞬間、狂ってしまえばよかった……。
「…あっ……」
胸の飾りを口に含まれて、私は女のように声を上げた。彼とこうやって肌を重ねるようになったのは―――あの日、以来から。
私の全てが壊れたあの日から、私は溺れるようにこの腕を求めた。
「…はぁっ…シヴァ……」
「―――フレッド……」
名前を呼ばれた事がひどく不思議だった。こうして腕の中に組み敷いている相手の名前すら、彼は知らないのではないかと思ったので。名前すら、どうでもいいものなのかと思って…。
「…あぁ…んっ……」
胸に歯を立てられて、空いた突起を指で摘まれる。両の性感帯を刺激され堪え切れずに瞼を震わせた。
「…もっと…もっと…攻めて…くれ……」
もっともっと全てを忘れるくらいに、もっと。この身体を犯して貫いて欲しい。何もかも考えられなくなるくらいに、もっと。何もかもを忘れるくらいに。
「まだお前は死にたいと…思っているんだな……」
「…シヴァ……」
何もかもを見透かしたその瞳。そして何もかもを反射したその瞳。この瞳に吸い込まれて何もかもを無に返せたならば。何も、かもを。
あの瞬間、何故私は狂えなかったのか?
背の高い男。リーフ軍において死神と呼ばれた黒髪の男。
顔色ひとつに、あの方に切り掛った。
―――無言でその剣を抜き……
その瞬間を私は今でも思い出せないでいる。
気付いた時はあのひとの血で海が出来ていた。
真っ赤な血の海。鮮やかな血の海。
その中であのひとは眠る。綺麗な顔で眠る。
オルエン様が…泣いていた。あのひとの死体に縋って泣いていた。
その中で、私は。
私は何をしていたのか?
泣く事も出来ず、縋る事も出来ずにただ。
ただその状況をまるで他人事のように。まるで別世界のように。
ただ、見つめているだけだった。
『お前、死にたいのか?』
お前の声が、聴こえる。あのひとを殺したお前の声。憎むべき、けれども憎む事は許されない相手。
私がこちら側を選んだ時から、何れはこうなる事を分かっていた。なのに。なのに、怯えていた。死なないで、と。殺さないで、と。
―――貴方がこの世界から、消えてしまわないでと……。
「…ライン…ハルト…様……」
その落ちてくる声に、私は無意識にその名を呼んでいた。ただひとり、唯一のひとの名前を。
「…ラインハルト…さ…ま……」
あなたの声。あなたの体温。あなたの香り。今でも目を閉じれば鮮やかに浮かんでくる。あなたの笑顔。あなたの優しさ。貴方の温もり。その全てが。その全てが瞼の裏から、私の肌から、蘇る。
――――あなたの指の、感触が……
もう一度、抱いて欲しい。あなたの熱さを感じたい。あなたにむちゃくちゃにされたい。その唇でその指で、その腕で。貴方に、抱かれたい。
「…ライン…ハル…ト……」
無意識に私は自分の身体を抱きしめていた。強く、何かから護るように強く。けれども全てを…あなたを亡くしてしまった私に、一体何を護ると言うのだろうか?
―――あなたのいない、この世界で……
「死にたいのか?」
もう一度お前はそう言った。私は空っぽの瞳でお前を見返した。空っぽ?本当は嘘だ。だって確かに私のこころにはお前への憎しみが宿っていたのだから。
「このまま死んでもいいのか?」
―――このまま、死ぬ?あなたの傍にゆく…あなたの、傍に…それも…いいかもしれない……
「俺を殺さなくても、いいのか?」
そう言ったお前の声は、何処までも冷たく静かだった。
じゃあお前は何の為に『こちら側』へと来た?何の為に、選んだ?
愛する男とともに滅びたいのならば、何故最後まで傍にいなかった?
死にたいのなら、何故傍にいなかった?
―――違うだろう?お前は『生きたい』のだろう?
愛する男の傍を離れても、ともに滅びる運命を引き千切ってでもこちらへと来たのは。
お前が生きたいと、そう思ったからじゃないのか?
生きて、そして。そして未来を掴みたいと、そう思ったからじゃないのか?
「殺す気力すらもない腑抜けなのか、お前は」
許さない。俺は決して許さない。簡単に死を選ぼうとする人間を。どんな理由であろうともその命を無駄にする者を。
「……ラインハルト…様……」
生きてさえいれば…どんなになっても生きてさえいれば…未来は望める。希望は描ける。生きてさえ、いれば。
「ならばそれに相応しい扱いをさせてもらおう」
まるで他の言葉を失ったかのようにその名を呼びつづけるお前の唇を強引に塞いだ。けれども、お前は抵抗ひとつしない。それどころか積極的に舌を絡めてきた。
「…んっ…んん…ふぅ……」
腕を背中に廻し、その唇を舌を求めてきた。お前のその空っぽの瞳に映っているのは、あの男か?それならば。それでいい。愛する男を殺した、その腕に抱かれ。抱かれてそしてお前は、生きろ。
――――復讐を糧にして…生きろ……
狂ったように、その身体を求めた。
何度も何度も貫かれ、そして果てるまで。
声が枯れるまで喘ぎながら、甘い悲鳴を上げながら。
壊れてしまえたらと祈りながら。
狂ってしまえたらと願いながら。
…そして生きたい…と、そう思いながら……
――――生きたいと、そう思いながら………
『フレッド…お前は生きろ……』
『ラインハルト様?』
『生きろ、そしてオルエンを頼む』
『どうしてですか?私は…私はずっとあなたのお傍に…』
『生きてくれ、フレッド…それが私の望み』
『…お前がこの地に生きて、幸せを見つける事が……』
生きたい、生きたい。
あなたがそう望むのなら。
あなたの願いが私の命ならば。
私は生き続けたい。
あなたの為に。あなたの為だけに。
それがあなたへの愛。
それでも。それでもあなたのいないこの大地で。
あなたのいない世界で、私は。
私はどうやって生きれば、いいの?
『俺を、憎めばいい』
狂ったように抱かれた後、それだけをお前は私に告げた。
―――憎めと、俺を憎めと。
ならば…そうしましょう…ラインハルト様…私はあなたを殺したこの男に抱かれながら…抱かれながら憎しみだけで生きてゆきます……
「ああ――っ!」
熱い楔に身体を貫かれ、私は堪え切れずに声を上げた。身体を引き裂かれるような痛み。けれども知っている、次の瞬間に訪れる狂ったような快楽を。この貪欲な身体は。
「はあっ…ああ……」
背中に爪を立ててそして無意識に、そして意識的に抉った。紅い血が零れるほどに。お前のその背中を。
「…はふっ…あ…あぁ……」
「もっと声を上げろ…それが生きている証…」
「…ああ…あんっ……」
「…快楽を感じる身体こそが…生きている証拠……」
「…もっとぉ…もっと…ああ…」
生きている証、生きている証拠。痛みを感じ、そして快楽を感じる事が生きている事。
―――こうしてお前の肉を求める事が、生きる事。
「ああああっ!」
身体の中に熱い液体が注ぎ込まれる。それと同時に私の視界は真っ白になった。
『ラインハルト様、あなたの傍にいない私に幸せはあるのでしょうか?』
『人はいくらでも生まれ変わる事が出来る。生きていれさえいれば』
『…ラインハルト様?……』
『何時しかお前も私を忘れて誰かをまた愛する事も出来る。生きてさえいれば』
『あなたを忘れるなんて、私には出来ませんっ!!』
『…それは嬉しいよ…フレッド…でもひとは生き続けて行く限り……』
『死に逝くものは何時しか想い出に変わるんだ』
あなたを、想い出にしたならば。
私は楽になれるのか?
そうしたらまた誰かを愛する事が出来るの?
―――こんなにも今でも胸が引き裂かれそうなのに……。
「…何時しか…俺が……」
快楽を貪り限界を迎えたお前は、何時しか俺の腕の中に崩れていった。何時もそうだった。気を失うまで俺に抱かれなければお前は、眠りに付く事すら出来ないから。
「…俺が……」
その髪にそっと指を絡めた。見掛けよりもずっと細いその髪に。触れたら擦りぬけてしまうその髪に。そして。
「……お前を失う事に…怯え始めている………」
そしてそっとその髪にひとつ、口付けた。
―――窓から覗く三日月だけが、全てを知っている。