踊り子



髪の先から零れた雫が宙に散らばり、ぽたりと地上に零れてゆく。それがひどく瞳に焼き付いて、離れてはくれなかった。まるで消える事のない残り香のように。


――――伸ばされた手を必死に掴んだ。夢中になってその手を捕まえた。これがただひとつの、救いの手だと信じて。


見上げた先にある夜空の星に手が届きそうな気がして、この手を伸ばしてみた。本当は届くはずない事は分かっていても、それでも伸ばしてみた。あの時のように。
「何やってんだ?ラーラ」
「あ、パーン」
ひょいっと宙に伸ばした手が、そのまま大きな手のひらの中に閉じ込められる。あの時よりも少しだけその手の大きさが小さいと感じたのは、きっと。きっとそれ以上にあたしの手が大きくなったからだろう。大人のふりをした子供の手ではない、大人になったあたしの手だからだろう。
「ちょっとね、星に手が届くかなーって」
「何ガキみたいな事してんだよ、お前は」
呆れたように告げられても、もう気にもならなかった。こんな風に口が悪いのも慣れっこだった。だってそれ以上にあたしは知っている、貴方の手が暖かくて優しい事を。
「そんなガキに手を出したのは何処の誰よ」
包んでくる手に指を絡めて、そのまま結びあった。そうして伝わるぬくもりはずっと変わらない。初めてこの手を取ったあの瞬間から、ずっと。ずっと、変わらないもの。変わる事のない絶対的なこのぬくもりはあたしが一番、最初に見つけ出した光だった。
「全くお前は…昔はもっと素直だった気がするぜ」
「それだけ成長したってことよ。だから、ほら」
顔を上げて、そのままひとつキスをした。唇を開いて息を奪うようなキスをする。その瞬間口の奥に広がった甘さに少しだけ睫毛を震わせた。
「ああ、そうだな。ガキだったお前には、こんなキスは出来やしねーな」
「ふふ、貴方が教えたのよ。こんなキスも」
もう一度睫毛を重ねて、ゆっくりと唇を重ねた。唇が痺れて濡れるまで、何度も角度を変えてその口内を貪った。呆れるまで、何度も。


初めての恋は笑えるほどに純粋だった。伸ばされた手に必死にしがみついて、ただ一人の相手を追い駆け続けた。
年不相応な化粧をし、男に媚びるように淫らに踊り続けた日々。望まずともそうせずには生きてはゆけずに、ただ夢中になって踊り続けるだけの毎日だった。その日々から抜け出すために差し出された手。その手を掴んだ瞬間、あたしの恋は始まった。
『パーン好き。貴方が好き。あたしは貴方が好きなの』
何度告げた言葉だろう。けれども貴方はあたしを相手にすらしてくれなかった。ガキは趣味じゃないと笑いながら。それでもあたしは追いかけた。呆れるほどに、貴方だけを。
『―――駄目だ、お前はやっと違う世界を知ったばかりだ。初めての世界を見せた俺に惚れたと勘違いしているだけだ。生まれたばかりの雛が、初めて見た相手を親と思うようにな。だからこんな勘違いに惑わされるな』
大人の笑み、遠い世界の笑み。あたしはそこに行きたくて必死になって追いかけた。再び年不相応な化粧をして貴方を追いかけた。けれども決して貴方に振り向いてくれなかった。
『勘違いだ。お前はもっと別の生き方が出来る女だ』
けれども今なら分かる。今ならば、貴方の言葉の意味が分かる。そうそれは貴方の何よりもの優しさだと。


――――あたしの恋は間違ってはいなかった。貴方の手を取った事は。貴方だけを追いかけた事は。貴方だけを好きになった事は。


必死になって掴んだ手は何よりも誰よりも暖かくて優しいものだから。そのぬくもりをあたしは誰よりも知っている。この結んだ指先が、繋がった手のひらが知っている。
「あたしに最初に教えてくれるのは全部貴方だね、パーン」
「お陰でこんなふしだらな娘に育っちまったな」
「もう、何言っているのよ。あたしがパーンしか知らない事は…貴方が一番分かっているでしょ?」
「そうだな、お前は俺だけの―――女だ」
暖かくて眩しい世界がこの世にある事を、踊る事以外にあるあたしが生きてゆく場所を、教えてくれたのも、与えてくれたのも、全部。全部、貴方だから。
「うん、あたしは全部。全部、パーンのものだよ」
子供だからもっと違うものを見るのだと。もっと色んな事を知るのだと。貴方はそうやってわざとあたしの手を離した。けれどもまた。また貴方はあたしを見つけ出してくれた。あたしの手を取ってくれた。色々な事を知った子供ではなくなったあたしに、同じ場所に立ってくれた。もうそれだけで。それだけでなにも、いらない。



永遠に消える事のない残り香が、ずっと俺のそばにあった。決して消える事のないその香りが。髪の先から零れる雫が、闇夜に伸ばされた白い指先が、ずっと。ずっと、消える事がなくて。
『パーン、好きよ。貴方が好き』
ガキなのにガキじゃない大人の顔で告げる言葉は、ひどく哀しく憐れに見えた。本当はこんなセリフはもっと。もっと少女のあどけなさの中で告げる言葉でなければならないのに。お前は告げる。『メス』の顔で告げる。好きだと、そう……
今だから言える、俺はお前にあの時から惚れていた。大人の顔をしたガキのお前に。でも答えられねーよ、そんな顔で恋を告げるお前に。だってお前は本当にまだガキなんだぜ。そんなお前が『女』の顔を無理に作るから、だから俺は答えられなかった。年相応の少女の瞳でお前が俺を好きだと告げるまで、答える事なんて出来なかった。


「パーン、好き。あたしは貴方が好き。ずっと、好き」


笑顔で告げたその言葉。そうだ、俺はずっと。ずっとその笑顔が見たかったんだ。無理をした大人の顔じゃない、背伸びしたただのガキじゃない…年相応の少女のお前。俺はお前のその顔で、好きだと告げて欲しかったんだ。―――ずっと、俺は……。


あの日あの瞬間に、恋をした。髪から零れる雫に、消える事のない残り香に。



もう一度手を伸ばして、貴方の指に自らの指を絡める。夜空の星に手は届かなくても、一番大切な貴方の指先にはこうして届く事が出来る。こうして包み込んでくれる手のひらがある。それは何よりもしあわせなこと。なによりも大切なこと。
「パーン好きよ。貴方が好き」
そして告げる言葉は呆れるほど何度も。何度も貴方に告げてきた言葉。呆れるほど繰り返し伝えてきた言葉。けれども大切だから。何よりもあたしとって大切な想いだから。
「ああ、俺もだぜ。ラーラ…悔しいくらいに惚れてるぜ」
そしてまたキスする。呆れるくらいにたくさんキスをする。溢れて零れてくる想いを、確かめるために、伝えるために。


そっと星の光が降ってくる。ふたりの頭上にそっと、降り注ぐ。それは終わる事のないあたしたちの想いのようだった。