かりそめ

…ただひとつ、欲しかったもの……

言葉なんか、いらなかった。
そんなものを欲しくはなかった。
たくさんの言葉よりも。

―――ただひとつの真実が、欲しかった。


「好きだよ、茜」
耳元で何度も囁かれて、唇に口付けられる。たくさんの言葉とキスの雨。僕の全身に降り注ぐもの。けれども僕はそんなものを欲しくはなかった。欲しくは、なかった。
「だから僕のものになってね」
ああ、そうだね。僕は君のもの。でも君は僕のものじゃない。君を捕らえているのは、君の心を捕らえているのはただひとり。

……今はいない、あのひとだけ………


互いが、それを望んでいたはずだ。
どちらかが『死』ぬ事は分かっていた。
ぢからかが滅びる事が。
それでもその運命を選んだのは君達で。
それを望んだのは、ふたりだった。
―――なのにどうして。

どうして君は、壊れたの?


君は壊れた。壊れて、いる。ただひとり真実愛した彼を自らの手で殺した。あしき夢に捕らわれた彼を殺した。でもそれは彼自身が望み、そして君自身が望んだ事。
誰にも入り込む事の出来ない、ただふたりだけの世界。
愛し合いそして殺し合う運命を選んだのは君達。他の誰でもない君達。それなのに。
それなのに君は、失った哀しみを耐えることは出来ないのか?

「この手も、この頬も、この髪も全部…全部僕だけのもの……」

君の手が、僕の髪を滑る。君の唇が、僕の頬を滑る。そう言う風に君は彼にそうしていたのだろう。そうやって彼を抱いていたのだろう。抱いて抱きしめて、そして。
僕を抱く時の熱い身体は、あの瞳は。僕を通して彼を探している。もうこの世にはいない、この世界の何処にもいない彼を。彼を、探している。

「…僕だけのもの……」

君は決して彼の名を呼ぶ事は無い。二度とその名を口にする事は無い。けれどもその名前は、その存在は。君の一番綺麗な場所に、静かに閉じ込められている。
どんなに閉じ込めて鍵を掛けても、決して閉じ込め切る事は出来はしないのに。
こんなにも君から染み出ている。こんなにも君から溢れている。君と言う存在が在る限り、彼はこの地上から消える事はない。
―――君が記憶している。君が感じている。君が全てを、覚えている。
消える事の無い、絆。他人の血すらも吸い取って、紅く染まる運命の糸。それがふたりを永遠に結び付けているのならば。
僕自身の血は全て。全てその糸に、吸い尽くされるしかないのだろう。

「――好きだ…茜……」

壊れた瞳。その破片から零れて来るのは、彼の存在だけ。それが痛いほどに伝わってくる。死を以ってして、君を手に入れた彼を…僕は憎まずにはいられない。こんな風にして君を永遠に手に入れた君に、嫉妬せずにはいられない。
―――こうやって、永遠に君を手に入れた彼に……。


足許から、崩れている。
今立っている場所ですら君には分からない。
こうして僕の名前を呼びながらも。
君は僕ですら、分からないのだろう。


「…速水……」
それでも僕の身体を滑る手に。
「…もっと……」
僕の身体に落ちてくる唇に。
「…もっと…触れて……」
そのぬくもりを、求めずにはいられない。


死んだ人間には決して勝てはしない。その瞬間その存在は永遠に刻まれる。
こころに刻まれる。綺麗なまま、で。美しいまま、で。
リアルの人間が勝てることはない。
醜い肉体を持つ僕が、綺麗な精神しかない彼に、勝てることはない。

―――ああそれでも…それでもかりそめでも君の手を求めるのは愚かなのだろう…


こうして肌を重ね合う事は何も生み出しはしない。
君は僕以外の場所を追い続け。僕は君のかりそめを演じるだけ。
それでも。それでも僕はこの手を離せない。
君が僕以外の『代わり』を求めたら?
僕以外のぬくもりを求めたならば?
たとえ代償でしかないこの行為でも。

―――君が、僕以外の人間を抱くのがいやなんだ……。


「…茜…茜……」
「…もっと…もっと…速水…」
「…茜……」
「…もっと…僕の中に……」


だって彼には肉体が無い。
どんなにこころの全てを捕らえても。
どんなに奥深くその存在を刻んでも。
もう彼は君に抱かれる事は無い。
もうこの鼓動を感じる事は無い。
僕だけが、君を独占している。
僕だけが、君の身体を独りいじめしている。

―――今は僕だけのもの…なんだ……


身体に注ぎ込まれる白い欲望に、僕は言いようの無い悦びと虚しさを感じる。
分かっている事だった。分かっている事だから。だって、本当は。

本当に欲しいものはこんなものじゃないはずなのに……


たくさんの言葉よりも、たくさんの口付けよりも。
僕はただひとつ。ただひとつ君から欲しいものがあった。
君からただひとつだけ、欲しいものが。それは。


―――それは君の、こころ………


END

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